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依頼2-1 神の怒り
W県N郡、海に面した漁師の町――そこには、あるものを神として祀る地域がある。
毎年正月には樽いっぱいの酒を供え、人々は不老長寿と安寧を願った。美しい女の姿の神は、普段は谷川の上流にある滝つぼに住んでいるが、底が海まで繋がっており、川と海を往来していると考えられていた。漁業を営む彼らにとって、水にまつわる神の恩恵はほかのどの神様のものよりもありがたい。人々は日々の漁獲物に感謝し、神を崇め大切にしてきた。
しかしその関係はある種、契約のようなもので、正しく履行されなければ簡単に破綻してしまうのである。
♦︎♦︎♦︎
谷川の上流、女神が住むと言われる滝つぼの浅瀬に櫓が組まれ、そこには巫女装束の娘が跪き、例年の奉物とは比べ物にならない量の酒樽が献上されていた。付近には櫓を見上げる屈強な男たちが集まっている。この神を信仰する漁師だ。皆、その体躯と顔に似合わず不安げな表情をしており、なかでもひときわ心配そうに巫女を見つめる若者がいた。両手を前で組み、ぶるぶると震え、「頑張れぇ……頑張れぇ……」とうわごとのように呟いている。
巫女は祈祷を済ませると、柄杓ですくい取った酒を滝つぼに注ぐように撒き始めた。何度か繰り返していると、酒を注いだ辺りから水面の色が変化してゆく。青みがかった美しい水は、誤って別の絵の具を垂らしたようにじわりじわりと濁る。
誰もが異変に気づいた頃、櫓の周囲はまるで豪雨のあとのように一面が茶色く濁っていた。小魚が跳ね、ぴちぴちという音はやがてその数に比例して大気を震わすほどの大音量へと変わる。
「なっ、なんや!?」
男たちは異様な光景に狼狽えた。
――神の姿を見た者は、これまでいなかった。信仰の対象ではあるが、姿かたちがあるのかわからない。美しい女とされているが、それは何百年も前の人間が残した言葉であって、どれだけ信頼に足るものか不明である。そもそも、本当にいるのかすらわからないのだ。
だから男たちは、まさかそれが自分たちが崇めていた神の姿であると、即座に理解することができなかった。こんなにもおそろしいものであると、思っていなかった。数日前に犯した過ちがどれほど大きく、どれほど影響のあることなのか、このときになってようやく知ったのだ。
それもすべてではない。恐怖の一端を、ようやく知ったに過ぎない。
滝口まで達するほどの水飛沫を上げながら、神は現れた。大きく開いた口からは真っ赤な舌と鋭い歯が覗き、木々の隙間から漏れる陽射しを受けて濡れた体は光っていた。出口の見えないトンネルのように広がる口内が見えたかと思うと、神は櫓ごと酒樽と巫女を咥えた。小さく、ぎゃっと悲鳴が聞こえた刹那、勢いよく迸る血液が漁師たちに降り注ぐ。木材を噛み砕く音が響き渡り、誰もが神の行いを呆然と見つめていたが、一人が声を張り上げた。なにかを乞い願うように手を組んでいた若者だ。
「あいつ巫女やなかったんかよぉ!!」
その声に意識を引き戻された男たちは、一斉に山を駆け降りた。皆が顔面に恐怖を張りつけ、転がり落ちると言っても過言ではないほどの速度で。
夜になり、漁師たちは漁協の事務所に集まった。まだ誰もこの状況を信じられずにいたが、異様なことが起きているのだけはわかっている。
「あれで……あれで女神様の怒りは鎮まったんやろか」
「見とったやろ……人間を食ったんや。生贄ちゅうことや」
「たかが……たかが一日、お供えが遅れただけで……」
「なあ、あれはほんまに神様なんけ……?」
「あれは……」
「あれは、まるで」
「化け――」
♦︎♦︎♦︎
「漁師たちが集まっていたところ、壁を突き破って化け物が現れ、それは見境なく彼らを食べてしまった。たった一人、片足を失ったものの生き残ることができた漁師は、その化け物は牛のような姿だったと話して意識を失ったそうだよ」
スマートフォンをいじりながら、八雲は今回の依頼について説明した。
「それからようやく警察に通報。しかし滝つぼで生贄になったと考えられる巫女も事務所に集まっていた漁師たちも、そこで死んだ痕跡がない。あるのは壊れた櫓と酒樽の破片、破壊された建物の残骸のみ。警察は滝つぼと事務所でのことを関連性も含めて事件と事故の両面から捜査しているが、生き残った漁師の証言は大きな怪我をしたショックによるものとされ、信憑性が高いとは言えない――これがあらましだ」
つまり町の人々は普通の事件や事故ではないと考えている。警察には解決できないと。
「それでうちに依頼を」
そのようだね、と八雲はホットコーヒーに口をつけた。
依頼者と待ち合わせているカフェに安曇と八雲はいた。凄惨な事件が起きたとは思えないほど、静かな町。
「依頼者というのは、誰なんですか」
安曇はチョコレートパフェを頬張った。ホイップクリームにかかっているチョコソースが濃厚でおいしい。
「事務所の第一発見者だよ。物音に気づいて行ってみたら建物は崩壊していて、片足のない漁師を見つけたそうだ」
なるほど。今回の依頼は狒狒のときと違って死者が出ている。……迷惑をかけないようにしなければ。
「真夜くん、手が止まっているよ?」
先ほどまでパフェをすくっては口へ、すくっては口へと忙しかったスプーンが動いていない。安曇がなにも言っていないのに、八雲は笑った。
「大丈夫だよ、心配しなくても」
それは安曇の杞憂をわかっているのか、それともなにか違うことなのか。
「早く食べてしまわないと、依頼者が来てしまうよ?」
やんわりと急かされ、安曇は再びパフェを口にする。不安を払拭するように、ザクザクとコーンフレークを噛み砕いた。
前回の依頼から二ヶ月、安曇にとって二回目の仕事。長年この仕事を続けている八雲からしたら二ヶ月などたいした期間ではないし、これまでにも死傷者の出ている依頼は多くあったのだろう。しかし、未経験――特殊な仕事なので一般的にはその割合のほうが大きいと思うが――で始めた安曇にとっては立派なブランクだ。似たような依頼はあまりないかもしれないが、段取りは数をこなしたほうが自信がつくし、心構えも違う。もう少し気負わずに、八雲にも気を遣われない程度にはなりたいと思うものの、何人も亡くなっているという事実が恐怖を掻き立てる。狒狒とは比べ物にならないほど、危険な依頼なのではないか。目にしてもいない化け物の姿を、真っ暗な口の中に引きずり込まれる巫女の姿を、逃げ惑う男たちの姿を、想像してしまう。
安曇の耳に、甲高い風音が――。
「真夜くん」
八雲の柔らかい低音と、カラン、とスプーンがグラスにぶつかる無機質な音がした。いつの間にか手に汗を握っている。
「大丈夫かい?」
「……すみません、大丈夫です」
安曇は溶け始めているアイスクリームをコーンフレークに絡めると、かき込むように口に入れた。
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