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依頼3-2 増える謎
「やぁっと帰ってきたなぁ、鬼一」
優しい声音。留守電の怒声とは異なるが、何度も「やくも」に電話を寄越した人物だということは呼び方でわかる。
「きみが安曇さんかい?」
「は、はいっ! スタッフの安曇真夜と申します! あの、何度もお電話をいただいていたのにすぐに折り返さず、大変失礼しました!」
法衣を身に纏った柔和な表情の老年は、深々とお辞儀する安曇に顔を上げるよう促した。
「いい、いい。どうせ鬼一がいたずら電話だとか言ったんだろう」
そのとおり。
「鬼一、いい子を見つけたなぁ」
「……おかげさまで。住職も、お元気そうですねなによりですそれでは我々は帰ります」
ようやく声を発したと思ったら、片言の次は棒読み早口の八雲。
「待て待て待て待て。依頼があると言っただろうが」
立ち去ろうとする八雲の腕を掴み、住職は茶屋を指差した。
『福寿院』オリジナルの薬草茶、味噌おでん、白玉しるこ――茶屋へ着くと住職の一声で軽食が用意されていく。
「おむすびも団子もあるよ、安曇さん。ラーメンも用意できるけど食べるかい?」
にこにこと話す住職は近所の優しいお爺ちゃん、といった雰囲気だ。「充分ですっ!」と両手を前に出す安曇の横で、八雲は頬杖をついていた。
「住職さんがこんな所でのんびりしてていいんですかー」
だらしないし、態度も悪い。まるで子どものような八雲――いい歳のおじさんだが――に安曇は笑いを堪えて薬草茶の湯呑みを手にした。ドクダミやイカリソウの入った茶は透き通った黄金色をしていて、湯呑みの底の「福」という文字にいっそうのありがたみやめでたさを与えている。
「年末年始を過ぎたから、ちょっと時間が取れるんだよ」
住職は湯気とともに甘い香りを漂わせる味噌おでんに手を伸ばす。少しばかり息を吹きかけて、熱々のこんにゃくにかぶりついた。ハフハフしながら咀嚼して飲み込むと、「忙しい時期に帰って来てもらおうと思ったんだけどなぁ」と八雲を見やった。ツーンとそっぽを向いていた彼は、住職の次の言葉に再び片言になる。
「来月だったら、祭りに参加してもらっても良かったんだけどなぁ。人数が多いほうが威勢がいいだろう?」
「お祭りがあるんですか?」
「おや安曇さん、気になるかい?」
住職の言う祭りとは、寺で毎年二月に開催される「春を呼ぶ祭り」のこと。修行者が心身を清めるために、滝行を行うのだ。盛り上がる安曇と住職を制するように、八雲が立ち上がった。
「ナニイッテルンデスカジュウショクー。イライガアルンデスヨネ? ライゲツマデナンテ、マテマセンヨー」
引きつった笑顔。なるほど、あの滝の前で挙動不審だったのは滝行への恐怖から。常に余裕の表情でこわいものなどなさそうな八雲だが、どんな人物にも弱点はあるのだなと安曇はまた笑いを堪えた。
「来月も来たらいい。どうせ店は暇なんだろう?」
「イヤーサイキンハイソガシクテ! イライサットウナンデスヨ! ライゲツハムリデスネ! サライゲツモ! モウズット!」
住職は鼻を鳴らすと「答えはわかっていたよ」と笑った。
「さて、それじゃ次は真面目な話だ。依頼について話そう」
急に場の雰囲気が変わる。八雲も椅子に腰をかけ、居住まいを正した。
安曇と八雲の訪れている『福寿院』より自動車で南方へ三十分ほどの、渓谷沿いにある温泉街。F県を代表する河川が街を左右にわけるように流れ、両脇には多くの旅館や足湯が並ぶ。湧出量が豊富で多種類の泉質を持つ、珍しい温泉だ。
「そこでなにが起きているんです?」
安曇の問い。
「一軒、廃業を懸念している旅館がある」
廃業。
珍しい言葉ではないだろう。
旅館の経営は観光産業の一つ。観光客がいなければ宿泊業は成り立たない。旅館同士で互いに街を盛り上げようという仲間意識はあれど、慈善事業ではないのだから、彼らはライバルでもある。どこかが競争に負け、その道を辿ることもあるだろう。
しかし住職は顔を顰め、天を仰ぐように椅子の背もたれに寄りかかった。
「あそこが廃業するなんて、理由が思いつかないんだよ。たった数ヶ月で。建物もあんなに汚れが目立って……」
「なるほど。原因を突き止めろ、ということですか」
調子が戻った八雲が依頼内容をすくい取り、住職が首肯した。
「依頼主は女将だ。詳しくは彼女から聞いてくれ」
依頼についての話を終えると、安曇と八雲は早速タクシーを呼び、温泉街へと向かうことにした。該当の旅館へ連絡する八雲を待つ安曇の隣へ、住職が立つ。
「安曇さん、鬼一に依頼しているのかい」
「えっ……」
住職はぽりぽりと頭をかきながら「いやぁ良くないものに悩まされているようだから」と言葉を続けた。
「わかるんですか……?」
「少しばかり、そういうものを知っている程度だよ」
穏やかな目だ。住職は時折、八雲と同じような空気を纏う。いや、それは逆か。八雲が住職に似た雰囲気を持っているのだ。
「鬼一に依頼しているなら安心したよ。普段はあんなだが、仕事に関してはやる奴だ」
八雲に向ける眼差しは、やはり親が我が子を見るような、愛情に満ちたもの。
「あのっ、ご住職は、社長のお父様なのでしょうかっ」
留守電を聞いていたときから思っていたことを尋ねてみた。住職はほんの一瞬、目を見開いて驚いたような顔をしたが、それはすぐに大笑いへと変わる。これには電話を終えた八雲も怪訝そうにこちらを見た。にやりと口角を上げ、「そう見えるかい?」と次は住職が安曇に尋ねる。
「は、はい……お二人は雰囲気が……似ているなと。失礼しました……」
「でもまあ、そんなようなものだよ」
「なぁ、八雲」と求めた同意に、八雲はばつが悪そうに口を結んでいた。否定も肯定もしない。だが、次の言葉には口を開かずにいられなかった。
「由羅のことは、話してないのかい?」
由羅――八雲からは一度も聞いたことのない名前だ。
「話していないよ」
少しばかり語気を強めたその一言が、境内に響く。
「由羅はなぁ、鬼一のこん――」
「真夜くん!」
「はっ、はい!」
「……行こう」
安曇を呼んだ声は、住職の言葉を遮った。しかし続きは想像に難くない。由羅はおそらくだが、女性の名前だ。
こん、コン、婚――。
そんな予測が脳内を駆ける。
住職は悪事を咎められた子どものように口を尖らせていたが、安曇の視線に気づくと「お仕事頑張ってなぁ、安曇さん」と笑顔で手を振った。
ばたん、とドアが閉まり、八雲が行き先を告げるとタクシーは静かに発進する。住職は姿が見えなくなるまで二人の乗った車体を見送っていた。
由羅とはいったい、誰なのだろう。
これまでに八雲がその名を口にしたことはない。いや、もちろん店の従業員兼使用人に家庭の話をする必要はないのだから、知らなくたって当然だ。
だが――。
住職の言葉を制止するように、安曇に聞かれまい知られまいとするように、八雲は声を発した。喉に小骨が刺さったような、このすっきりとしないもやもやした感覚はなんなのだろう。まるで隠しごとをされていたかのような。後ろめたいことを知ってしまったかのような。そう感じているのですら自分だけであるかもしれないというのに、穏やかだった水面が急にさざ波立つように、ざわざわとしたものが安曇の胸中に広がった。
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