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依頼1-2 狒狒の住む山
案内された宿は傍目にも古さのわかる旅館だった。通された二階の部屋は小ぢんまりとしていて、安曇はなんとなくほっとする。あまりに広い部屋に一人でいるのは、なんだか落ち着かないのだ。
まだ夕食までは時間があるため、先に温泉に入ることにした。大浴場も露天風呂もそこまで広くはないが、それでもアパートの風呂とは比べ物にならないほど寛げる。夕食前のためか、温泉に入っている客はまばらだった。露天風呂はタイミングよく貸し切り。周りを囲むように紅葉が植えられ、色づいた葉を楽しみながら温まることができる。少し熱めの湯ではあるが、山間を縫うように吹きつける風が火照った身体には気持ちいいくらいだ。
温泉を出る頃にはちょうど食事どきで、そのまま宴会場へと向かった。今日は団体客がいないので、夕食はほかの宿泊客と相席となるらしい。すれ違う仲居、浴衣姿の宿泊客――連れ立って歩く者はそれぞれに会話に花を咲かせている。一人でいると、自然と周囲の声が耳に届いた。
「ねえ、山のほうでさ、おかしなことが起きてるんだってよ」
そんな言葉が耳に入った。
もう少し聞きたい。そう意識を傾けたときだった。
北風が通り抜けるような甲高い音が聞こえた――気がした。
しまった、と思っても遅い。バランスを崩す身体。脱げるスリッパ。
恐怖で心臓がギュッと握られるような感覚を受ける。
安曇の右足は階段を踏み外した。手すりに掴まっていなかった身体は抗う猶予を与えず下へと落ちようとする。
「ぼうっとしていたら危ないよ、真夜くん」
柔く低い声が、安曇の後ろから、かけられる。
「階段でスライディングでもするのかい?」
安曇の腕をしっかりと掴み、八雲が微笑んだ。もう片方の手にはスマートフォン。
「……ありがとうございます……社長も、危ないですよ、歩きスマホ」
注意はしたが、安曇の声は弱々しい。
初めて会ったときと同じように、助けられた。ソシャゲばかりしていて時間にルーズ、店の経営もいい加減。だらしのないおじさんではあるが、自分を助けてくれるのはこの人しかいない。そうわかっているから、迷惑をかけているような、負い目のようなものを常に感じているのだ。しかし、八雲はそんな思いすらも見透かしているのだろう。
「きみも依頼者だからね。それに大事な従業員だ」
そしてわざとらしくスマートフォンを掲げる。
「真夜くんほどドジじゃないから、大丈夫」
「……ドジじゃないです、不運なだけです」
「ふうん」
このいつもの調子に、安心させられる。
「さあ、早く行きましょう。お腹ペコペコです」
「あっ待って、ちょっと笑った!? 笑ったでしょ!?」
……訂正。イライラさせられる。
♦︎♦︎♦︎
二部屋続きの宴会場にはぽつりぽつりと客がおり、先に着いた者から食事を始めていた。好きな場所へ座っていいと案内されたので、二人は出入口から離れた隅の席を選び、腰を落ち着けた。
飲み物と料理が運ばれ、なぜか乾杯をする二人。意味はないが、なんとなく。
膳にはY県で採れた山の幸と、メインに地産の牛肉を使ったすき焼き。卓上鍋に火を灯すと「ごゆっくりどうぞ」と仲居は去っていき、安曇と八雲を構う者はいなくなった。会場には音楽も流れており、他聞を憚る会話をするにはちょうどいい。
「あの、社長」
「んー?」
松茸の炊き込みご飯に舌鼓を打ちつつ、八雲が返事をする。
「さっき階段の近くで、聞いたんです。山のほうでおかしなことが起きてるって。それってもしかして、今回の依頼と関係あるんでしょうか」
「そうだねえ、あるかもしれない」
待ちきれなくなって鍋の蓋を外す八雲。まだ早すぎる。少し残念そうな顔をして、そっと蓋を戻した。
「あまり考えすぎなくていいよ。またさっきのようなことになっても危ないからね。仕事のことを考えるのは明日になってからでいい」
「はい……でも……初仕事なので、気になって」
八雲は安曇の顔をちらと見やると、ふむ、と顎に手を添えた。
「そうだな……基本的に人間に危害を加えるようなものではないし、ぼくたちが頼まれているのはあくまで交換だ。そこまで心配するような内容じゃないよ。それよりも、真夜くんには集落中を歩き回ってもらうことになるだろうから、今夜はこの料理と温泉で英気を養ってほしいな」
「はい……」
なおも安曇の表情は晴れやかではなかったが、八雲は気にしていないかのように再び鍋の蓋を開けた。
「あっぐつぐついってる! 真夜くん、これもう食べていいかな!?」
「ああ……そうですね……まあ牛肉なんで完全に火が通っていなくてもいいんじゃないですかね……」
とりあえず安曇もすきやきをつつくことにした。甘い割り下で味付けされた肉に卵が絡んで、まろやかな旨みが口いっぱいに広がる。
「おいしいね」
「はい、おいしいです」
鍋の温かさに、安曇はようやく唇の端を上げた。
♦︎♦︎♦︎
翌日は爽やかな秋晴れだった。陽射しが山々を照らし、紅葉がひときわ鮮やかに目に映る。安曇と八雲は旅館をあとにし、山田の軽ワンボックスカーで集落へと向かった。
市街を離れ、山道を走ること数十分。対向車はなく店も見えなくなり、ただただ山に囲まれた道をゆく。時折、動物のシルエットが描かれた飛び出し注意の看板があるくらいだ。ぽつりぽつりと家屋や畑が見え始めたところで自動車は速度を緩め、一軒の民家へと入る。
「こいづ、見でほしいんです」
山田は安曇と八雲を庭先にある犬小屋へ案内した。「ほれ」と指差すほうを見ると、そこに犬はおらず、繋いでいたと思われるリードのみが残されている。リードの先は引きちぎられたようにほつれており、付近には血痕。わかっていたことだが、穏やかでない。
血の痕は犬小屋の横を通り抜け、家屋の裏まで点々と続いている。そしてそのまま山の斜面のほうへ……。
見上げるとなにかが草をかきわけながら歩いたような跡ができており、ちょうど斜面に差しかかる場所には赤黒いかたまりが落ちていた。
「社長、これ……」
「犬だね」
正確には、犬、だったもの。
それが犬だとわかったのは、その場に残された頭部に血濡れた首輪がついていたためだ。頭蓋は割られ、脳髄と目玉はなくなっていた。体のほうはというと、腹部はほぼ失われており、肋骨が丸見え。ちぎられた四肢が無造作に転がっている。
「今朝見だら、やられでだんだ」
沈痛な面持ちで山田が言う。
「これは狒狒に間違いないですね。ここで食事をしたのでしょう」
「ヒヒ……?」
安曇の問いに、八雲が頷く。
「山に住んでいる、猿の妖怪さ。時折、山から降りてきて、こうして動物を喰ったりするんだよ」
「食べ……?」
妖怪が動物を食べる。
犬歯で喉元に喰らいつき、鋭い爪で腹を裂き、肉を、内臓を――柔らかな部分だけを食す。血液と、それが混じった涎を撒き散らしながら。
そこまで考えて、安曇は口元を押さえた。あまり想像するものじゃあない。
「山田さん、狒狒に出会した方はおりますか?」
「まだいねぇね、声を聞いだ者ならいっけども」
「そうですか」
八雲はおもむろに立ち上がると、安曇へ声をかけた。
「真夜くん、それじゃあ仕事を始めよう」
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