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依頼1-4 共存という選択
十一月ともなると十七時には辺りは暗くなる。山間部で陽射しが遮られた場所ならなおのことだ。時刻はまだ十六時になろうかというところだが、薄暗さと時折聞こえる動物の声に安曇はびくりと肩を動かした。おまけに少し前まで汗をかいていたため、身体が冷えている。いったいどこに家があるというのか、八雲はずんずんと獣道を進んだ。
「あの、社長」
「ん? どうしたんだい」
「最後の一軒はどこなんです?」
「ああ、もう着くよ。ほら、この斜面から見えるから覗いてごらん」
促されるままに身体を屈め、言われた場所を見ようとしたそのときだった。
「真夜くん」
柔らかな低音が、安曇の耳に届く。
振り返ると、串を片手に持った八雲が数メートル先に立っていた。
おかしい。社長ならここにいる――自身の隣にいる八雲を見上げると、彼はあとからやってきた八雲を見つめていた。その横顔は柔和な表情を崩さないいつもの八雲ではなく、明らかに苛立ちを湛えている。ぶちゅっ、と彼が口の中でなにかを噛み潰す音がした。
「社長が二人……」
「安曇くん、ぼくから離れるな」
安曇の隣にいた八雲が彼女の腕を掴む。
「いっ……!?」
思いのほか力が強い。腕がぎりぎりと締め付けられる感覚に、安曇は顔を顰めた。
「おや……紳士的じゃないね。彼女が痛がっているじゃないか」
あとからやってきた八雲が普段と変わらぬ調子で喋り、歩を進める。そして口にする。
「その手を離すんだ。狒狒」
「狒狒!?」
思わず二人の八雲の顔を交互に見る安曇。どこからどう見ても、どちらも八雲だ。
その様子に、串を弄ぶようにしながら八雲は笑った。
「真夜くん、ぼくがきみを『安曇くん』なんて呼んだこと……あったかな」
「あっ……」
小さく声を漏らすと、隣に立つ八雲の力が強くなる。
「近寄るな!」
「……声を荒げるなんてぼくらしくないね」
二人の八雲の距離はもう間近。安曇が手を伸ばせば、あとからやってきた本物の八雲に届きそうだ。
「どうせ彼女を騙して、その斜面から突き落とそうとしたんだろう」
八雲の眼光が、少しだけ鋭くなる。声色は半ば呆れているようにも聞こえた。
と思ったのも束の間、楽しげに、八雲になりすました狒狒へ語りかけた。
「ぼくってそんなにお猿さんみたいな顔してるかな? どちらかというと狸顔だと思うんだけど……いや、きみのほうがかっこいいかな」
「……はあ……?」
ぽかんとする安曇。
対して狒狒はというと。
「ぎゃぁ〜はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ! そうだろう! おれの変化は秀逸だろう!」
大ウケだ。
本物が偽物を褒めたことが愉快だったようだ。安曇を掴んでいた手を離し、大笑いしている。気が緩んだからか、次第に狒狒の変化が解けていく。衣服が破れ毛むくじゃらの腕があらわになり、端正な顔は赤みを帯びて目玉はぎょろぎょろと大きく、同じく人間ではありえない大きさへと変容した口からは牙が覗いている。唇が異様にぶ厚く、笑うと上唇がべろりと捲れた。それは目元を覆うほどの厚さで、薄桃色であるが、まるでぱんぱんになるまで血を吸った蛭のようだった。唇の内側を走る細かな血管がやけに赤く、この妖怪が生きて目の前にいるのだということを嫌でも実感させられる。
人間とも獣ともとれるような大声で笑い続ける狒狒に安曇は思わず耳を塞ぎ、ほぼ同時に八雲も動いた。一歩で狒狒へと距離を詰めると、手にしていた串を捲れ上がった唇へ突き刺したのだ。ぶつっ、とソーセージにフォークを突き立てたときのような音を立てて串が唇を貫通すると、八雲はそれをそのまま額まで突き刺した。
「ぎゃああああああああああああああああああああああ」
山中に響き渡る断末魔の叫び。
「いいいいいいいっでぇえええええええええええ!! なにすんだ人間がぁああ!!」
怒りをあらわにし、狒狒は両腕をぶんぶんと振り回すがその手は空を切るばかり。串で唇を固定されているため、目が覆われたままなのだ。ついでに口からなにかが溢れ出た。
「くそっ!! 見えねぇ!!」
もがく狒狒は足を踏み外し、斜面を滑る。初めは踏ん張ろうとしたものの、転がり落ちるように二人の前から姿を消した。八雲への恨み言だけが捨て台詞のように聞こえていたが、それもすぐに静かになった。
「うん、もう大丈夫だね」
八雲の言葉で張り詰めていた空気が弛緩する。
「狒狒は人を騙すんだ。まだ会った者はいないと聞いていたけど……まさかきみが一人目とは驚いたね」
「人間には危害を加えないんじゃ……」
「おそらくだが、集落に初めてやってきた人間が珍しかったんじゃないかな。殺すつもりはなかったんだろう」
自身のジャケットを安曇の肩にかけると、八雲は狒狒のいた辺りにしゃがみ込んだ。
「どうしたんですか……?」
「ほら、見てごらん。やはりあいつが犯人だった」
八雲の視線の先を辿ると、そこには二つの球体。先ほど狒狒の口から飛び出したものだ。安曇はそれがなんなのか気づくと、小さく悲鳴を上げた。
一つは噛み潰されて歪な形状となっているが、それは明らかに目玉である。
「あの犬の亡骸、眼球が二つともなかっただろう」
――ずっと口に含んで、味わっていたのだ。八雲になりすまし、安曇に声をかけたときから。ずっと。
「う……」
肉塊となった犬の姿を思い出す。きっと昨日まで、愛くるしい瞳で主人を見つめ、尻尾を振っていたのであろう。それが生き物の形を崩し、ただそこにあるだけの物に、無機物に成り果てていた。
ほとんど原型を留めていない犬の姿と狒狒の残虐な行いに吐き気が込み上げ、安曇は口元を押さえた。それを気遣うように「骨をしゃぶるのが好きなのもいるから……」と八雲が優しく声をかける。
おそらくフォローの方向が間違っている。
が、八雲を睨む余裕を与える程度にはなった。
「あいつは……狒狒は死んだんでしょうか」
「いや、ここから落ちた程度で妖怪は死なないよ。追い払ったに過ぎない」
その答えに安曇は狼狽する。
「大丈夫なんですか……?」
「大丈夫。あと三分したら一斉に缶香を焚く手筈になっているよ。集落が香りに包まれれば、狒狒は香を嫌って山から降りてくることはない」
あくまで魔除け。人間の住む場所から怪異を遠ざけるのみ。
「なにか言いたそうだね、真夜くん?」
「いえ……」
「どうして倒さないんだ、と思ってる?」
相変わらず、見透かされている。
「……はい。だって、山田さんが言ってたじゃないですか。畑は荒らされるし犬や猫がいなくなってるって。あんな殺し方をして……」
「うん……じゃあ、歩きながら話そうか」
二人は来た道を戻った。少しずつ視界が開け、集落に近づくほど白檀の甘い香りが強くなってゆく。狒狒といたときの薄ら寒さや緊張感が嘘のように、安曇の身体を安堵と香りが包み込む。
「真夜くん、ぼくたちは牛や豚を食べるだろう。ライオンはシマウマやインパラを食べるだろう。朝になったら起きるし夜になったら眠る。それと同じなんだ」
遠回しな話ぶりに、安曇は小首を傾げた。
「妖怪……狒狒も同じ。動物を食べるのも、人を騙すのも、彼らの習性だ」
「同じ……」
「だから、殺さない。住む世界をわける。そうすることで被害を抑える。この集落は、そうやって狒狒と生きてきたんだ、昔からね。そしてこれからもそうしていくつもりだ。それが、ここに住む人たちの選択なんだよ」
理解できることと納得できることは別問題だ。前者ができても、後者ができないことは多々ある。きっと今の安曇の思考は、これに近い。
八雲は小さく微笑むと「考え込まなくていい」と言った。
「ぼくたちは仕事でここに来ている。彼らがいいならそれでいいんだ。これ以上、踏み込むべきではないんだよ」
言葉とともに白檀の香りが風に乗り、鼻腔をくすぐる。集落一帯に甘い香りが漂っていた。舗装された道を進むと、山田が軽ワンボックスカーの横で手を振っているのが見えた。八雲もゆったりと手を振り、互いにぺこりと頭を下げている。
八雲は不思議な人だ。
すべてを知っているかのような、なにもかもを赦すかのような優しい瞳を持っている。かと思えば、すべてを諦めているかのような、なにもかもを嘆いているかのような物憂げな瞳をしていて、すべての感情が、微笑みの裏に隠されている。
「だいぶ冷えたね。帰ろうか、真夜くん」
八雲の明るい声に安曇がはっとする。どうやら考え込んでいるうちに、山田との話を終えたらしい。安曇も挨拶をすると、山田は申し訳なさそうな顔をした。
「すまないねぇ、こわがったでしょう」
彼女が狒狒に騙され少しばかり行方知れずになっていたことは、すでに集落中の知るところらしい。田舎の噂が広がる速度は凄まじいのだ。
それにしても、山田が謝ることではないのだが。
――狒狒と共に生きる。
脳裏を過ぎる八雲の言葉。
この山田の謝罪こそが、それを物語っているのだろう。安曇が納得できるかどうかはともかく、集落の人々が選んだ道だ。
「いえ……大丈夫です。社長が……八雲が迎えに来てくれたので」
尊重。
それが、安曇の取った選択。
にこりと笑うと「ご依頼いただきありがとうございました」と深々と頭を下げた。
安曇と八雲を乗せた自動車は、夜を迎えようとしているH市の市内を駅へとひた走る。狒狒の住む山の上にはひと足先に青白い月が浮かび、仄かに紅葉を照らしていた。
『出張万屋やくも』三ヶ月ぶりにして安曇真夜の初仕事――無事に完遂。
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ー安曇の営業日誌ー
狒狒を捕まえる方法。
笑わせて上唇を捲らせ、錐のようなもので唇から額まで突き刺す。
狒狒に出会したらこの方法で対処する。
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