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雨が降っている。
不恰好に伸びた手足が不快に冷やされていく。
目の前にあったはずの道は暗闇に霧散して、跡形もなく消えてしまった。
糾す時が来たのだと脳は理解していても冷やされた身体はまだ、と動けずにいた。
小学校の頃、■は背の高い子どもだった。容貌に優れなかったが、悪い要領ながら詰め込んだ知識で成績は悪くなく、評判は良くもなく悪くもなかった。そうして生きるうちに大人たちにも子どもたちにも裏切られたが歯を食いしばって耐え忍んだ。教室の端でひとり給食を食べることも、髪を引きずられて竹藪に連れて行かれることも、偽証されて殴打されることも、耐えるに全く問題なかった。根性こそが■の美点たりうる要素だったのだ。
けれども、ひび割れた己がパッキリ分離した瞬間があった。ああ、私はその時からいる。理想でいようとする自己、堕落と逃避に酔いしれる自己、悲嘆し続ける自己、怒りのまま攻撃に転じる自己。薄いガラスの板を折ったように■は細かく、千々に分かれた。その内で私が何であるのかは私にもわからないが、飛び散ってから■の内にいたのは私と粗野で恥ずかしいおれだったことは間違いない。最も、"おれ"は年を経るにつれて溶けて生き絶えたが。
生きているうちにガラスの粉たちは私に取り付いて時折傷つけてきた。■は僕だと、わたしだと、騒いで止まらない。私はただ握りつぶした。掌から血が流れるのも気にせず、ただひたすら、取り付いた粉や破片を退けて握りつぶした。一部は"おれ"のように溶けて生き絶え、次第に小さな破片がどこかに散らばるのみとなった。
あるとき、残った破片に語りかけられた。おそらく■が二十歳を迎えた折だったろうか。破片たちはもう時間だと語った。■が生きるのを許された時間は二十年より前であり、もういるべきではない。私にもわかっていた。それでも長い長い余生を過ごすしかないとも思っていた。それは私だからだ。勇気のない自己である私であるからこそ、私にとって正しい選択肢は選び得ない。
糾せ
糾せ
糾せ
糾せ
私が■であるならば、いずれ必ず。糾す時が来るのは自明の理なのだ。それまでは血を流そうが、痣を作ろうが、破片を腕に頭に頸に脚に刺されながら進まなければならない。進むべきだ。勇気のない私はこのまま学校を出て、社会人となり、■として進んでいかなければ。
……そうして五年ほど経ったか。
雨が降っている。一歩足を踏み出せば糾される。このまま不快に湿った服がまとわりついて動けないのを、理由にしてはいけない。破片たちを集めなければ。そうして霧散した道の果てに■がいる。暗くて見えないけれど、間違いなくいる。私が■ならば、進まなければ。
中学に上がって以降出会った友人たちは様々な色を持つ才能あふれる人たちだった。ひび割れた羞恥のおれを受け入れてくれて、無難に扱ってくれた。だが、羨望に駆られたぼくはいつもどこか苦しい気持ちでいたし、私はそれを後ろめたく思っていた。次第におれが溶けてぼくになっていくうちに、苦しさで普通の呼吸ができなくなっていた。夜になれば息絶える直前のような浅い呼吸を繰り返し、こうあっていたくないと思う私の腕を掻きむしってわたしは呻いた。ああ今が憎い。苦しい。友人、お前たちがあるからわたしは苦しい。■はわたし、わたしであるからこそ己が憎い。すべて憎い。苦しい。終わらせてくれ……
血を流しながら進もうとするわたしを守るためにボクは言い聞かせた。ボクってば天才。何かしら才あるからこそあの子たちの隣に立てているんだよね。その才はおそらく一生私には気が付かないが、きっと。
一つ一つ記憶を拾っていく。■の記憶だ。そして私の記憶でもある。破片となってから今の今まで進んできた時間を拾い集めて、思い返す。私は何者なのか、どうするべきなのか、糾される。拾い集めた時間の中にいる■が破片として掌を突き刺した。
握る。
■は、私だ。ずっと欲しかった言葉が今なら出る。誰からか貰おうとしてみっともなく振る舞った■は大人になった。■…私は、私だ。お前は生きていてよかったのだ。私が許さずして他の誰が許すのだろう。
破片と血が混ざり合って道になった。冷え切って失われていた雨の感覚が戻ってくる。低い雲が垂れ込む空が見える。糾し、そして取り戻すのならば、私は進まなければならない。私は私であるのだから……
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