ただいまが聞こえてくる部屋

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 夕方。  ドアを開けると、扉の隙間に仕込んでおいた紙切れが落ちてきた。  今日は誰も部屋に入ってこなかったのだろう。 「ただいま」  少し広めの4LDKの賃貸は一人暮らしには贅沢な代物だ。 ――おかえり。  確かに声が聞こえた。  俺は玄関の隅に置いてあるゴルフクラブを握り、廊下を進む。  職業柄、人の恨みを買うことが多い。  一部屋ずつ荒らされた形跡がないか、人の気配がないか……異変を確認しなければならない。 「……いないな」  風呂場まで見て回る。  浴槽の淵にはいくら掃除しても消えない血の痕。  壁には誰かが暴れて引っ掻いたような傷がある。  我が家はいわゆる事故物件と呼ばれる部類に入っていることだろう。  それらはもう俺にとっては日常の一部なので、異変でも何でもない。 「ちっ、空耳か……」  俺は生活スペースに選んでいるリビングに戻っていく。  煙草を付けて一服することにした。 「…………」  白い煙を吐き出し、壁一面の婦女暴行殺人事件の関連資料とその記事を眺める。  これはおよそ3年前の事件だ。  犯人は政界のお偉いさんの息子だった。  追い詰めるまで1年かかった。  記者というマージンがなければ追うことすら難しかったはずだ。  そして妻は……そいつに殺されたのだ。  もう一度煙草の煙を吐き出して、夕闇に染まる街の景色に目を凝らす。  庶民的だが、どこか温かい光が灯る穏やかな街並みが広がっている。  この部屋は妻が選んで、そして殺された部屋だ。  この景色は俺一人で見るには手に余るモノだ。 「そろそろ引っ越すか……」  犯人は死刑になったが、行き過ぎた取材を行った俺は同業や政界の人間に疎まれるようになった。  駅のホーム待ちをしていて誰かに背中を押されるなんてざらだ。  警察は勿論あてにならない。  自分の身は自分で守るしかない。 ――ただいま。  再び声が聞こえた気がした。  優しい声だ。  ゆるりと視線を動かす。  開け広げられた襖の向こうの仏壇に妻の遺影が目に入った。  笑顔のまま衰えることのない写真だ。  傍のカレンダーには今日の日付に赤丸がついていた。 「そっか、今日はお前の……すまないな」  携帯灰皿で煙草をもみ消した俺は仏壇の前に移動する。  線香を立てて正座して両手を合わせた。 「……おかえり」  今日は妻の命日だ。
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