新月が満ちるまで

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   バチン!  ミツキの頬に、私の赤い手形がついた。その拍子に唇が切れたのか、ミツキの口元に血が滲む。  ミツキは私の平手打ちを黙って受け入れ、傷ついても美しい顔で私を見た。正当防衛とはいえ、女の暴力すらも当然のように受け入れる彼に、私は何故か苛ついた。  私は、人形みたいなミツキに言い放つ。 「……私は、今までの女みたいにはいかないよ」  私の言葉に、ミツキはへらっと笑った。 「そうみたい。どうしようかなあ」  大して困っていないくせに、彼は肩をすくめる。  私はそんな彼に「はあ」とため息をついた。ミツキを家に上げたのは私だ。彼を飼う気はないが、彼を拾った責任は果たさないといけない。  私はミツキと向かい合って座り、彼に条件を提示する。 「ミツキは、まずしっかり体を休めて、落ち着いたら仕事を探して、自分の力で生きていけるようになること。うちを出て行くまでは、面倒見てあげる。拒否権はないよ」 「働くのやだなあ」 「今すぐうちから叩き出してもいいんだよ。私に手を出しても叩き出すから、そのつもりでね」 「冗談だって。分かったよ、おねーさん」  ミツキは観念したように笑うと、私に右手を差し出してくる。 「……今度は何?」 「何って、よろしくの握手。これからしばらく一緒にいるんだし、これぐらいはいいよね?」  先ほどの色香はどこに消えたのか、今度はどこまでも純粋な瞳で私を見てくるミツキ。この握手すらも、彼の手の内なのだろうか。私はミツキの握手に応えず、代わりにマグカップを持ち、ココアを一口飲んだ。 「……出て行くときなら、握手してあげる」 「やっぱりクールで優しいね、おねーさんは」 ミツキは口元の血を拭いながら、へらっと笑った。  こうして、私とミツキの共同生活が始まった。新月の夜のことだった。  翌朝、私はソファで眠るミツキに合鍵と昼食代を置いて、いつも通り出社した。そしていつも通り仕事をこなし、夜にはいつも通り夕飯の買い出しをして帰路につく。帰り道、今日からミツキも入れて、二人分の食事を作らないとなあ、とか考えながら、夜空を見上げた。……父親と二人暮らしをしていた頃のように。 『母さんの方が料理が上手かった』 『そうやって俺に恩を売ってるんだろう、俺を惨めだと思っているんだろう⁉』  料理を作って帰りを待っていた中学生の私に、父が言い放った言葉が壊れかけの街灯みたいにちらついた。父と二人暮らしを始めた当初は、いっちょ前に傷ついていた、気がする。心を動かすことを意識的に放棄してからは、随分と生きやすくなった。 「面倒くさ……」    私は呟きながら、アパートの自室前に着いた。鍵を開け、玄関に入る。がちゃ、とドアが開いて閉じる音がした。その直後だった。   「あ、おかえり、おねーさん」 「え……?」  奥の部屋から、ミツキが私を微笑とともに出迎えた。部屋の奥には、既に用意された夕食が見える。ミツキが作ったのだろうか。私が呆けていると、ミツキは可愛らしく首を傾げる。 「どうしたの、ぼーっとして」 「いや……」  自分の中の感情が分からなくて、何から言って良いのか分からなくて、私は固まる。  すると、ミツキは私が買い出しをしてきたのに気づいたのか、荷物を私の手からさっと取っていった。 「買い出ししてくれてたんだ。ひょっとして、食べたいものがあったとか? だったら俺、またヘマしちゃったなあ」  軽くなった手が行き場をなくす。行き場をなくした手は、そのまま下にだらんと垂れた。   「……私が、夕飯作るつもりだったから」 「それは、おねーさんがそうしたかったの?」 「……今まで、実家でも、私が料理してた」 「うん」 「料理、あまり上手くなくて、残されることも多かったけど」 「そっか」  ミツキはしばし沈黙し、未だに突っ立ったままの私にこう言った。 「今まで頑張ってきたんだね、おねーさん。おかえり」 「……ただいま」  おかえり、と言われたのはいつ以来だろう。ただいま、と言ったのはいつ以来だろう。  ミツキが作ってくれた夕飯は、温かくて美味しかった。 動くことを放棄していた心がほんの少し、ほんの少し揺らされたような気がした。  父は、幼少期に母親を病気で亡くしたという。自分の父親からは虐待を受けたらしい。とにかく、母性というものに飢えた人だった。そんな父は、妻に母性を、母親を見いだした。だが、妻は他人だ。母親ではない。子どものように縋ってくる父に、気の強い……弱い人間を理解できない私の母は、離婚を切り出した。  妹は母との生活を、私は父との生活を選んだ。  今度は私が、父の母親役となる番だった。しかし、そのときの私は所詮子ども。子どもに、母親役などこなせるわけがなかった。 『お前はいいな、母親がいて』  父は仕事から帰って酒を飲むと、私を恨めしそうに見つめ、何度も羨んだ。  次第に、父が仕事から帰って言う「ただいま」は、私の恐怖の象徴となった。    私は、今でも父が怖くて仕方がない。 「おねーさん」  ミツキの声で、私ははっと目を覚ます。時刻は夜の二時。まだ朝とは呼べない時間だ。   「……どうしたの、ミツキ」  私は、ベッドの傍らに座ってこちらをのぞき込むミツキに問いかける。そこでふと気づいた。全身、ぐっしょり汗をかいている。ミツキは優しげな顔で、私に言った。 「遅くにごめんね。うなされてたから、起こしちゃった」 「……そっか」 「お水飲む? あと、タオル持ってこようか」  ミツキは私の返答を待たず、水とタオルを準備しに部屋の奥へと消えていく。  ミツキの姿が見えなくなったとき、何故か目元に力が入った。  彼はすぐに戻ってくると、私に水の入ったコップを手渡す。 「タオルはここに置いておくね。少し水で濡らしてるから、冷たくて気持ちいいよ」 「……ありがとう」  私が少し落ち着いた様子を見せると、ミツキは静かに声をかけてくる。 「……嫌な夢でも見た?」 「……そうかもしれない」 「そっか」  しばしの沈黙。次に口を開いたのは、美しく、穏やかな表情のミツキだった。 「今夜は、夜更かししちゃおっか」 「え?」 「あったかいもの飲んで、くだらないこと話して。おねーさんが眠るまで、俺ついてるからさ。だからきっと、次は良い夢が見れるよ」 「……大丈夫。もう、眠れそうだから」  穏やかな人と、穏やかなひとときを過ごす。普通の人にはあって、私にはなかったこと。私には、あまりにも荷が重すぎる。私はコップをテーブルの上に置き、布団をかぶってミツキに背を向けた。そんな冷たい私に、ミツキは相変わらず優しい声色で言う。 「分かった。何かあったら言ってね。おやすみ、おねーさん」  私は、ミツキを受け入れてはいけない。倫理的にも、互いのためにも。  私は布団にくるまりながら、必死に心を放棄した。
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