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翌朝から、ミツキは「いってらっしゃい」と私を見送り、「おかえり」と私を出迎えた。
私は彼の言葉に応えることなく、日々を過ごした。これ以上応えたら、後戻りできそうになかったから。
ミツキはそれでも、私に穏やかな日々を与えてくれた。私のちょっとした不調にも気づいてくれた。私の好物を覚えてくれた。約束通り、私に手を出さなかった。
ミツキは、私の父とは真逆の人間だった。
それでも私は、「いってきます」「ただいま」、この二つの言葉を、ミツキに返すことはなかった。
そんな穏やかだけど、どこか苦しい日々の出来事だった。
私は夕飯を食べ終わった後、部屋でココアを飲みながらくつろいでいた。
ミツキは食後の皿洗いをしてくれていた。食事に関する家事は、彼の役割になり始めていた。
洗い場から、がしゃん、と食器が割れる耳障りな音が響く。
私は一瞬びくっと驚いたが、すぐにミツキが皿洗いをしていることを思い出して洗い場に駆け込んだ。
「ミツキ、大丈夫?」
床に皿の破片が散らばっている。洗剤で手を滑らせてしまったのだろう、ミツキは手に白い洗剤の泡をつけ、呆然と皿の破片を見つめていた。その目はあまりにも空洞で、傷つき、愛情に飢えていた。
ミツキは私が洗い場に来たことに気づいたのか、はっとした表情を見せる。目に、偽りの光が灯る。彼はいつも通り穏やかに、へらっと笑いながら慌てて床の破片を素手で拾い出した。
「ごめん、おねーさん。手が滑っちゃって。すぐ片付けるから」
かちゃ、かちゃ、と破片を拾うミツキの手は、かすかに震えていた。そんな状態で尖った破片を拾うものだから、ミツキの綺麗な指に切り傷が入る。傷口から、真っ赤な血が出る。それでもミツキは破片を拾うのを止めない。彼の震えは、止まらない。
「ミツキ」
「多分、大事に使ってたお皿だよね。割っちゃってごめん、おねーさん」
「ミツキ、止めて」
「俺、ちゃんと後片付けするから」
「ミツキ!」
こんなに近くに居るのに、私の言葉が聞こえないミツキに、私は声を荒げた。
ミツキは、私の声にびくっと体を震わせる。瞳が落ち着きなくきょろきょろと動き、大きく見開かれ、その目に涙が溜まる。彼はゆっくり口を開けると、今にも泣きそうなか細い声で啼いた。
「ごめん、おねーさん……捨てないで……」
「……そもそも、飼ったつもりはないよ」
私はミツキの腕を心臓より高く上げて止血しながら、彼に静かに語りかける。
「私には、ミツキを拾った責任があるの。ミツキが独り立ちできるまで、放り出したりしないから。……約束を守る限りはね」
「約束……」
「そう」
私はまだぼーっとしているミツキの手を引き、リビングへと移動する。彼をソファに座らせ、ティッシュで傷口を押さえながら、ミツキの手を握って止血した。
「ミツキは、今までちゃんと約束を守ってるでしょ。だから、捨てられるなんて思わなくていい。ミツキが自分の力で生きていけるようになる、その日まで」
「おねーさん、俺……」
「何、ミツキ」
涙混じりの声。泣きたくてたまらないはずなのに、ミツキは無理矢理口角を上げて、私に言った。
「俺……いつかは出て行かなきゃ、駄目かなあ……?」
「……そうだね。いつかは出て行ってね」
私はあくまで淡々と、彼に応える。ミツキは、ここにいるべきじゃない。一人で生きていけるようにならなきゃ駄目だ。私は彼を受け入れたらいけない。その末路は間違いなく、後戻りできない底なし沼だから。
ミツキは私の返答に、一瞬、苦しそうな顔をした。でも、それは本当に一瞬のこと。彼は俯くと、数秒後には涙も苦しみもなかったかのような、穏やかな笑みを私に見せた。
「そうだね。約束だもんね。分かったよ、おねーさん」
「………………」
私は応えず、ミツキの指の応急処置を終わらせた。
彼は処置された指を嬉しそうに、寂しそうに見つめていた。
次の日。
私はその日も何事もなく仕事を終え、何事もなく帰路につき、何事もなく玄関の前に立った。そして、いつものように「ただいま」を言うつもりもなかった。
玄関の鍵を開ける。家に入る。家の中は、真っ暗で冷たかった。
「……ミツキ?」
何かあったのだろうか。パンプスを脱ぎ散らかし、私は自宅に入る。電気をつける。鮮明に見えるようになった部屋は、温もりを失ったかのようにがらんとしていた。
ミツキは、私に何も言わず出て行った。
部屋が寒い。料理の匂いがしない。ミツキの「おかえり」が、聞こえない。
あれほど安心した狭いワンルームが、今は酷く怖くて仕方がない。あの穏やかな日々がもう二度と得られない。怖い。一人でいるのが、怖い。
「……ごめん、ミツキ」
「いってきます」って、「ただいま」って、ちゃんと言えば良かった。
「いつかは出て行ってね」って、言うんじゃなかった。
目元がぎゅっと熱くなった。
「ただいま~。ごめんね、おねーさん。夕飯の材料、買い忘れがあってさあ。……どうしたの、ぼーっとして?」
「ミツキ……帰ってきてくれたの?」
「まだ行く当てもないからね。……おねーさん」
「……何」
「……泣いてるの?」
私はミツキの胸に飛び込んだ。彼の胸で、子どもみたいに泣きじゃくった。涙なんて、心の象徴みたいなものだ。不安定な父の象徴だ。それでも私は、溢れてくる熱いものを止めることができなかった。
ミツキは私を静かに受け入れ、その温かい胸元で泣かせてくれた。彼は、子どもをあやすように優しく、穏やかに撫でてくれた。
私が一通り泣いて落ち着き始めると、ミツキは私の顔に手を添える。私が手当てした指が、優しく頬を撫でる。
「おねーさん」
「何、ミツキ」
彼は私の言葉を待つことなく、私に口づけした。
私も、ミツキを受け入れた。後戻りできないことなんて、もうどうでも良かった。
深夜、私達はベッドの上でいろんなことを語り合った。
「……おねーさん、お父さんと二人暮らしだったんだ」
「そう」
「何で、お父さんを選んだの?」
「……お父さん、母親を小さい頃に亡くして、父親から虐待を受けてきて」
「うん」
「お母さんにも妹にも捨てられて、この人の人生は何だったんだろうって思ったら、お母さんのところに行けなかった」
「そっか」
「……結局、実家に帰らなくなって、お父さんのこと見捨てちゃった」
「……おねーさんが一緒に居て、お父さんは救われたと思うよ」
「……だといいな」
私は、ミツキにも質問する。
「ミツキは、どうしてヒモをしてるの?」
「……俺もね、両親が離婚してる」
「うん」
「俺の顔は浮気して出て行った父さんそっくりで、それが母さんは許せなかったみたい。よく殴られたり、いろんなことを言われたりしたよ」
「……そうなんだ」
「高校卒業して、すぐ家を出て、仕事を始めた。でも、すぐにしんどくなって働けなくなった。俺に残ったのは、この顔だけ」
「……ミツキは、顔だけじゃないよ」
「そうだといいなあ」
ミツキは美しい顔でへらっと笑った。私もすっかり緩んだ表情筋で、へらっと笑う。
そういえば、まだこの言葉を言ってなかった。
「……ミツキ」
「なあに、おねーさん」
「……おかえり」
ミツキは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに思い出したように笑いながら言った。
大人みたいに穏やかで、子どもみたいに純粋な笑顔だった。
「ただいま、涙子おねーさん」
新月が満ちるまで 完
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