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視線を逸らさず彼は顔を近づけ、赤い舌を猫のように出すと濡れた頬を舐め、涙が落ちた口角に口付けた。
「大丈夫。菫に都合の悪い事は、俺がどうにかしてあげる」
逆光でもなお輝きを放つ瞳。幸福を詰め込んだ宝石みたいに稀有な煌めきが、とろんと溶けるように緩む。
「妻を守るのは、夫の役目でしょ?」
何度目かの妻という言葉。夫という言葉。それらの音が今やっと一つの意味を持って脳内に届いた。
そうか。今日、私は、私ではなくなったんだ。
蛍原菫ではない別の人間に。最悪の人生に別れを告げて、都合の悪い事には蓋をする、別の人間に。
「愛してるよ菫。全部俺に任せて」
優しさとも取れる甘く危険なセリフ。そんな言葉が欲しいんじゃない。私は真実が知りたいだけ。
だけどそれが聞きたくない言葉なら、私はきっと、また目を背けるのだろう。
「嘘だよ…全部。きっと、全部、うそ…」
弱々しく吐いた言葉を、蛍は「そうだね」と肯定の微笑みを浮かべ、私を守るみたいに柔らかく抱き締めた。
微かな甘い匂い。優しい体温。穏やかな鼓動。皮肉にもそれは、どれもが私が長年望んでいたものだった。
「菫、俺と幸せになろうね」
ぽろりとまた涙が溢れたのは、自分の浅はかさに消えたくなったから。
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