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私の口から不意に漏れ出た依央という名詞を認識した瞬間に、祥平の表情から血色がなくなったように見えた。
「ああ、そうなんだ」
「あ……えと、」
「……もういいや」
どうして自分が依央を呼んだのか、全くわからなかった。けれど、発せられた言葉をなかったことにすることはできない。その証拠に、祥平は無力感に支配されたみたいな、そんな表情をしている。きっとそれはもう元には戻らないもの、要は非可塑性のものだろうと思った。
「あの、祥平」
「だから、もういいって」
祥平が私から簡単に離れた。心のどこかで良かった、と安心する。
けれど、彼の表情は違っている。私はひどく歪んだ彼の表情を、母親の姿に重ねた。
一度離れたはずの彼が、もう一度近づいてくる。祥平は両手を私の肩に添えて、私の顔を覗き込んだ。
「はあ、どうしてだろうな。お前なんか、栄養失調にでもなって死ねばいいよ」
みぞおちの奥が、ずきり、と痛む。
言葉を失って、ぱくぱくと口を動かしてみるも、祥平はぴくりとも表情を動かさない。
肩にかかる彼の手の力が強くなっていく。そうしていると、綾人くんの家で眠らされていた時に見た夢を思い出す。
母親から与えられた急性的な苦しみと、祥平から与えられた慢性的な苦しみ。そんなふたつの、昔の頃を彷彿とさせるような夢を見た。
今更になってそれを咎める気にはならないが、この家のこの場所の忌まわしい記憶に、私はずっと縛り付けられているらしい。
ごめんなさい、と絞り出した言葉は宙に消えた。
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