第1章 本能

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第1章 本能

 目の前にある小さい扉を開けると、中には何も入っていなかった。  右手に持ったローファーがやけに重く感じた。校内で履くためのスリッパが下駄箱から消えているのは、今月はこれで2回目だった。  なんとなく、手に持ったローファーをその中におさめてみる。けれど、私がこれから履くべきものはどこにもない。どうせ探したところで、見つかることもない。  私は靴下のまま、廊下を歩き始めた。職員用の出入り口に行って、来客用のスリッパを借りようと思ったからだ。廊下の冷たさを靴下越しに感じる。廊下で誰かとすれ違うたびに、何も履いていない自分の足元をじろじろと見られているような気がした。  人は総じて、他人に興味があるらしい。良いところにも、悪いところにもだ。私にはそれがさっぱりわからない。  私は自分のスリッパがなくなってしまう理由を理解していないし、しようとも思わなかった。誰かから悪意を向けられているから、という説明が付されても、悪意を向けられることとスリッパがなくなることの関連がどうしてもわからない。  スリッパがなくなるのは、確かに困る。困るけれど、誰が私のスリッパを隠したのか、知りたいとは思わなかった。  私はそれよりも、低次元の場所で生きているからだった。  マズローの欲求階層説、というものを倫理の授業で習った。人は、低次のものから順番に、「生理的欲求」「安全への欲求」「所属と愛への欲求」「承認と尊重を求める欲求」「自己実現欲求」そして「自己超越」という欲求を持っているらしい。次の次元の欲求が生まれるためには、それぞれの下位次元の欲求がすべて満たされている必要があるらしい。  私はきっと、所属と愛への欲求が生まれる段階に達していないのだと思う。だから、スリッパを隠されていても、誰かに悪意を向けられていたとしても、私にとっては大した問題ではないのだ。  そう説明すれば、私自身の奇特さを理解してもらえるだろうか。
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