第1章 本能

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 下駄箱にローファーがちゃんと入っていた。中に画鋲が入っているわけでもなかったので、今日は比較的、運が良いなと思った。  外の風に当たって、徐々に目が醒めてきた。幾分か思考がクリアになっている気がした。心なしか体調もすこし良くなっていたので、足取りが軽い。  学校を出てしばらく歩くと、古臭い団地が現れる。日当たりの悪くて、じめっとした空間が広がっている。私の家は、その一角にあった。  私に、父親はいなかった。お父さんは事故で死んじゃったの、と母親は言うけれど、なんとなく母親が言うことは嘘なんだろうなと思っていた。本当のことはよくわからないけれど、多分、母親を置いて逃げたとか、そういう理由なんじゃないか、とは思っている。  私は幼い頃、父親に顔が似ているという理由で母親からよく叩かれた。今思えばそこまで強い力ではなかったが、大人から浴びせられる圧倒的な力に対して、子どもながらに毎日戦慄としていた記憶が、今でも生々しく思い出される。でも別に今更、母を咎める気にもならなかった。  母は、所謂夜の仕事とやらをしている。具体的に何をしているか、ということは何もわからないし、知りたいとも思わない。  とにかく、母はあまり家に帰ってこない。私が学校に行っている間に家に帰ってきた痕跡を残すことはあるが、私が帰宅する頃にはいつもいなくなっている。  私は今日も、誰もいない家に足音を立てずに入る。蛍光灯の電気から垂れ下がる紐を引くと、ジジッと不快な音を立てながら、数秒遅れて電灯が点いた。
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