IMY

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 住宅街(アップタウン)都心(シティ)を結ぶ管内高速鉄道(メトロ・チューブ)を降りて、人波に押されるように駅を出た。四方八方へと人が散り、5分ほど石畳の通りを西へ進むと、やっと人通りが疎らになった。僕が目指すのは、高層タワーマンションが林立する東地区ではなく、せいぜい5、6階建ての似たような造りのアパルトマンが並ぶ西地区だ。東西地区より奥の南には、アップタウンの名称の由来である小高い丘の上に、戸建ての高級住宅が建ち並んでいる。一方、駅より北側には低価格の長屋やバラックが海に向かって地を這うように広がっており、決して治安が良いとは言えない。 「……っ!」  コートの襟首を夜風が吹き抜け、思わず身を竦める。そろそろマフラーの必要な季節なのだと気づき、ふと足が止まる。 『君は寒がりだから』  そう言って、革の手袋を脱いだホコホコの手を僕に絡めて、自分のコートのポケットに引き込んで……。この道を彼と歩いたのは、昨年の秋の始まりだった。それから半月も経たずに、彼は病に倒れて――。 「寒い」  革靴の爪先にカサリと触れた枯葉を払うように蹴り出して、家路を急ぐ。急いだって、誰が待っているという訳ではないのに。だけど寒くて……彼のいないこの日々はどうしようもなく寒くて。  レイ=ファン・チェルボ。僕の恋人。学生時代から付き合い、就職を機に同棲を始め、将来を誓い合った。少し紫がかった黒髪が艶やかで、透明感のある白い肌はしっとり滑らかだった。インクブルーの瞳は夏の夜空のように深く、その中に意思の強さを示す輝きが美しく……見つめ合ったとき、あの瞳の中に吸い込まれるような、落ちていくような感覚が、堪らなく好きだった。  レイ=ファン……レイ、会いたいよ。会いたいんだ。今すぐ僕を抱きしめて――!  視界が滲む。胸が押し潰されそうだ。しばらく我慢できていたのに、不意に甦る想い出はいつでも甘く、僕の心を掻き乱す。早足は加速して、程なく小走りになり、2人が暮らしたアパルトマンに向かって駆け出した。赤い屋根、4階の東南向きの角部屋。そこに今でも独りで住んでいるのは、まだ想い出を整理することが出来ないからだ。愛し愛された記憶の骸に囲まれて涙の沼に沈むことしか、時を送る術を知らなくて――。  レイを襲った不治の病は進行が早く、みるみる彼の命を蝕んだ。そして、雪が溶けるより早く、最愛の人を僕から奪い去った。この現実を、僕はまだ受け入れられずにいる。
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