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帰らなければ、と思った。
あたりは暗い。周囲の様子はあまり見えない。
夜を濃縮還元のジュースにして引っ繰り返した闇。きっと最近飲んだオレンジジュースよりも、格段に濃いだろう。
とりあえず、歩くか。
呟く。先が見えない以上、先に進むしかない。
なぜか直感的に、そう思った。
数歩進む。
やっぱり。
また、呟く。彼は独り言の多い人間だった。
彼が移動したのに追従し、あたりの視界が同じ半径でひらけた。
やはり、進むしかないな。三たび、そう言葉を宙にほうる。
どこまで続くだろう。
すこしだけ、おっくうな気持ちになりながら、一歩、また一歩と足を踏む。
静穏な闇の中を。
◇
家に、帰らなければならない理由があった。
それが青年の持つ、歩きつづける目的意識と、完全に一致していたのだ。
記憶のなかで、男性にしては長く伸びている、ダークブロンドの髪が揺れた。
今日はその後輩が、青年とトランプをして遊ぶために、家に来て待っているのだった。
はやく帰らないと、待たせてしまう。
なにかしら、期待しているような目をしていたのを思い出し、軽く目を伏せる。
やはり、……いや。
いまはそのことを、考えるのはよそう。
とりあえず、ここを出ることに専念しないと。
もうひとり、待っているひとがいたよな、と、記憶を探る。……だが、いくら引き出しのなかを探しても、なぜか、その顔が出てこない。
エスニックのあまい香りだけが、ただ、ずっと鼻の奥に残っていた。
むかしやったゲームみたいだ、とふと、青年は考えた。
トンネルをずっと歩き、探検する、という内容だった。
ここはトンネルではないものの、一面の粒度の濃い闇がどことなく、それを想起させる。
どこに迷い込んだんだろう。オレは。
すこし、寒気がした。やはり気温が低いのか。
羽織ものの一枚でも持ってくれば良かったな、などと独りごちながら、背を丸めて、とぼとぼと歩く。
ふと思い立って、七分丈のジーンズのポケットから、スマートフォンを取り出す。
電波マークはゼロ本。だろうな、と、無表情でこぼす。
その手がびくり、と大仰に震えた。大音量で、スマートフォンが突然、鳴動したのだ。
電話だ。
しかし、こんな着信音は設定していない。
人間界に存在することじたいに嫌悪感をいだくような、調子のくるった音階。
聴いたことのない。
なんだよ、これ、と言う声はかすれている。
青年はしばらくそれを聞いていた。はやくこのメロディの演奏が終わることを祈りながら。
音が止まった。
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