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あるく。あるく。歩きつづける。
わき目も振らずに歩く青年。そのうしろから、
「やあやあ」
と、声が聞こえた。
青年はすこしの間ののち、振り返る。
そこには、さっきめちゃくちゃに磨り潰されてしまったはずの、棒人間が立っていた。
「なんとか、戻ってこれたよ〜! ねね、また、ぼくとお話してくれないかい?」
「……すみません。ちょっと、急ぎたくて」
青年は進行方向に片足を向け、言う。棒人間は「まあ、そうだよね。その気持ち、わかるよ」
と言った。表情がないわりに、真剣さの伝わってくる言い方だった。
「忘れてしまったんだろう。大切なひとのこと」
しばらく沈黙し、こくり、とうなずくのを見、棒人間は沈んだ声で、
「はやく出たほうが良い」と忠告する。
「どんどん忘れてしまうよ。……けれど、ぼくはきみと、話したいし。どうしようかな、さて」
ちょっと考えて、「あっ」パチン、と白い指を鳴らす。
「そだそだ。きみはふつうに、あるきなよ。そのうしろから、ぼくはのんびりついてくるから」
青年は「はい」と、うなずく。
棒人間はじゃあ決まりだね、と、うれしそうに言って、青年のうしろについた。
「あのね。きみ、……後輩くんのことを、忘れてしまったんだろう?」
青年の肩がかすかに跳ねる。なんで知ってるんですか、と、振り返らずに言う。そして、まあ、でも、そういうこともあるか、こんな場所だし、と続けた。
「どうやら、だいぶ、ここになじんできたみたいだね」
棒人間がふふ、と笑う。
「そうそう。ここは、そういう場所」
ぼくは、慣れるのに時間かかったけどなあ。
たのしそうに言い、なにげなくつづける。
「やっぱりきみ、素質があるんだね。なにもしていなくても、『そういうもの』を寄せ付けちゃう位に、ね」
青年は訝しげに訊く。
「…………どういう、ことですか?」
「きみ。おもいだせるかい」
棒人間が突如、ぴたりと後ろについてきていたその足を止めた。青年も同じように立ち止まる。相手を見る。
「後輩のことですか」
「ちがう」首をふる。「もうひとり、いただろ」
「…………え」
「もうひとり、いただろう」
青年は上を向いた。
鼻の奥のあまい香りが、鼻涙管を通り、その頭までをも、浸す。
長い、黒髪。
記憶のなかで、揺れる。
「…………あ、」
青年がなにか言いかけたそのとき、
――ぱんッ、と。
棒人間のすがたが、四方八方に散った。
さらさらと、消えていく。
まあそういうこともあるか、と、青年は呟く。そして、歩き出した。
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