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青年は歩きつづけ――ようとして、どしゃッ、とハデに転倒した。
いててて、と呻き声を洩らしながら、両の手をついて起き上がろうとする。その、体重をかけた腕が、がくがくと震えている。
すこし、あるきすぎたか、と彼は思った。
腕に力を入れるのを、ふっ、とやめる。
ふたたび、腹ばいで地面につくばう。
通常のものよりも遥かに冷たいアスファルトの温度が、着ている薄手のパーカー越しに伝わってくる。ここは異界だからかな、やけに冷たいな、と彼は、くぐもった声でひとりごちた。
アスファルトを見る。顔の近くを、虫が這っている。運動会のときによく見る、赤い、ちいさな虫だった。こういうのは居るんだ、となぜだか、感慨にふける。
虫は彼の顔の方に近づこうとし、また、すぐに方向転換した。ちいさすぎてよくわからないが、彼にはなんとなく、その虫が、ちらりと彼の方を見上げたように感じられた。
応援してくれてるのかな、と軽く冗談めかし、笑う。元気が出た。そうつぶやき、立ち上がる。
――右ひざに、にぶい痛み。
つっ、と舌打ちのような音が、青年の口から、思わず転がり出る。
そちらを、背をかがめて見る。
ぐじゃあ、と痛々しく擦り剥けた、範囲の広い傷。そこからは、……まったく赤くない、血が、どろり、とにじみ出てきている。
青年はしばし動きを止め、じいっと、その傷をながめていた。すこし前に出した指先が、うろ、と逡巡するように、定まらなく動く。
その指が動く。傷口へ向かう。
ぬちゃっ、と粘度の高い音がして、人差し指が膝のその傷をなする。くろぐろと温かい液体が、全面に付着する。
ぬらぬらと光るそれはさながら、さる大作家の描いたおぞましい独自の世界のようでもあった。
それを、口元に持っていく。
震える指を、ちら、と、やや血の気をなくした舌先が舐める。
そのまま、しばらく舌の上で、その得体のしれない液体を、ころがす。
青年はうなずき、つぶやいた。
――血の味がする。
うんうん、と何度も、そういう機械のように、一定のリズムで繰り返し、うなずく。
まだ、オレは、この世界の住人になり果ててはいない。
オレはまだ、まだ、……人間だ。人間なんだ。自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、呟く。ひらいた唇の間からは、ほのかに鉄の味のする、温度を持った呼気。
異形の色の血に濡れた指先が、すう、と右頰に線をえがく。そこの癒えた傷からも流れてくる。
呟く。
だって、まだ、――血の味が、するんだもの。
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