明けない夜など、ない。

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 青年は進む。蹌踉(そうろう)とした足取り。  酸素を歩行のために使い果たした彼の頭のなかには、もう、ひとかけらの思考力も、残されてはいなかった。  そして、……記憶も。  ポロポロと、脆い生地のクッキーがひとの歯に噛まれて砕けるように微細化した思い出が、その端から下に落ちて行き、欠落していく。  もう彼には、自分自身の名前すら、だんだんとわからなくなってきていた。  なんだったっけ、と、それに対して呟き確認をすることすらせず、ただ、一つ覚えじみた歩みをつづける。  クッキーのかけらが、ぱらぱら、ぱらぱら、とちらばる。足もとに。  もはやそれを拾い上げようとも、必死になってかき集めようとも、元のかたちになんとか戻そうとも、彼はしていなかった。  ただ、足を前に、進める。  彼には、大いなる原初のものにも似た、目的があった。  それを達成するためだけに彼は、人間としてのこれまで生きてきた個人的な、そして大切な記録ですらも、全てかなぐり捨てて構わないと信じていたのだ。  荒い呼気を宙空に、叩きつけるように吐き出すだけだった口から、なにか、言葉の断片のようなものが零れ出る。それはただの、単語として成立していない唸り声のようにも聞こえた。  次のように聞こえた。  おそらくそれは、彼の頭のなかをいま支配している、その目的、のようであった。  彼はまだぎりぎりのところでそれを、口の端にあげられるくらいのレベルで、認識できていたのだった。 「行かないと。――そー君の、ところへ」  その、口にされた名は。  彼が必死になって忘れまいとしていた、  焼肉を食べに行ったり、今日――もう時間が、どれだけ経ったかもわからないが――、彼の家でトランプをして遊ぶ約束をしていた、後輩のものでは、  ……なかった。  また、彼がかつて、小学校時代にかわいがっていた、おいしそうなあぶらあげ色をしたコーギー――彼の抱えているトラウマのもととなった――のことでも、ないようだった。  ほの暗い部屋が、彼の脳裏に映像として、再生されている。  異国の、……否。  あきらかな、異界の香り。  それがいま、まぼろしではない実体を伴って、彼の思考をもうろうと、侵していた。  ウォーキング・デッドさながらの歩調。  左右に幽かに揺れながら、進む。進む。  進み続ける。  その奥に一瞬、見る。  長く伸ばした前髪が、ゆれる。  の顔がようやっと、見えた。  しろい肌。淵無しの瞳。  朱い唇がちいさく、言葉をかたどる。  ようこそ。  そう彼には、読み取れた。
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