0人が本棚に入れています
本棚に追加
青年は進む。蹌踉とした足取り。
酸素を歩行のために使い果たした彼の頭のなかには、もう、ひとかけらの思考力も、残されてはいなかった。
そして、……記憶も。
ポロポロと、脆い生地のクッキーがひとの歯に噛まれて砕けるように微細化した思い出が、その端から下に落ちて行き、欠落していく。
もう彼には、自分自身の名前すら、だんだんとわからなくなってきていた。
なんだったっけ、と、それに対して呟き確認をすることすらせず、ただ、一つ覚えじみた歩みをつづける。
クッキーのかけらが、ぱらぱら、ぱらぱら、とちらばる。足もとに。
もはやそれを拾い上げようとも、必死になってかき集めようとも、元のかたちになんとか戻そうとも、彼はしていなかった。
ただ、足を前に、進める。
彼には、大いなる原初のものにも似た、目的があった。
それを達成するためだけに彼は、人間としてのこれまで生きてきた個人的な、そして大切な記録ですらも、全てかなぐり捨てて構わないと信じていたのだ。
荒い呼気を宙空に、叩きつけるように吐き出すだけだった口から、なにか、言葉の断片のようなものが零れ出る。それはただの、単語として成立していない唸り声のようにも聞こえた。
次のように聞こえた。
おそらくそれは、彼の頭のなかをいま支配している、その目的、のようであった。
彼はまだぎりぎりのところでそれを、口の端にあげられるくらいのレベルで、認識できていたのだった。
「行かないと。――そー君の、ところへ」
その、口にされた名は。
彼が必死になって忘れまいとしていた、
焼肉を食べに行ったり、今日――もう時間が、どれだけ経ったかもわからないが――、彼の家でトランプをして遊ぶ約束をしていた、後輩のものでは、
……なかった。
また、彼がかつて、小学校時代にかわいがっていた、おいしそうなあぶらあげ色をしたコーギー――彼の抱えているトラウマのもととなった――のことでも、ないようだった。
ほの暗い部屋が、彼の脳裏に映像として、再生されている。
異国の、……否。
あきらかな、異界の香り。
それがいま、まぼろしではない実体を伴って、彼の思考をもうろうと、侵していた。
ウォーキング・デッドさながらの歩調。
左右に幽かに揺れながら、進む。進む。
進み続ける。
その奥に一瞬、見る。
長く伸ばした前髪が、ゆれる。
彼の顔がようやっと、見えた。
しろい肌。淵無しの瞳。
朱い唇がちいさく、言葉をかたどる。
ようこそ。
そう彼には、読み取れた。
最初のコメントを投稿しよう!