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◇
うしろから泣き声が聴こえてくる。
もはや誰のものかも判別できないそれが、ついさっきから、青年の鼓膜にへばりついて取れずにいた。
悲愴。
その体現。
自分まで、悲しい気持ちになるような。
ぼんやりと、そう思う。
その嗚咽に、こまやかに耳をかたむけながら、彼は黙々と歩を進める。
せめて、その声に耳をふさいでしまわないことだけが、自分にできる唯一の詫びだ、と。
青年は心のうちだけでそう、零した。
その瞳にもう、正気のひかりは無い。
◇
視界のすみに、また自販機があらわれる。
迷いなくビビッドイエローの飲料を取出口へと落とし、ごぷ、と数口、飲み下す。おえ、と少しだけ、えづく。
これしか実質的に、強制的に選べなくされてはいても、いまの彼には貴重な水分補給の手段だと思えていた。
ここは、ラストスパートのただなか。
その事実が肌感覚で、研ぎ澄まされた彼の精神には諒解できていた。
ひなびたラベルのペットボトルが、中味の液をなだらかに揺らす。彼の歩調はさっきからずっと一定で、よどみのひとつも見当たらなかった。
ときおり飲料水を口に運び、そしてほぼ必ずと言っていいほどその度にむせ込みながら、なお、彼は歩みを止めない。
――ゴールまでこのまま、一気に。
その確固たる決意が、彼のなかには揺るぎなくあった。
しばらく、それが続く。
飲み終わったペットボトルを、いつのまにやら横にあらわれた網々スチールのゴミ箱にぽん、と放り投げる。綺麗な放物線の軌道をえがきながらそれは、ゴミ箱にするりと収まり、しんと静かにうしろから、彼の背を見送る。
彼はいつしか、かるく鼻歌などを歌っていた。
乱れた呼吸で、途切れ途切れに。
気分がよかった。
心残りのなくなった地縛霊のように。
空を、首を真上に曲げてながめる。
見渡す限りの、闇。太陽の代行者は、おびえてすがたをくらましている。
ふと、歩調がゆるやかになる。
止まる。
ずっと耳についていた、かなしみに沈む誰かのしゃくりあげる声が、消えていた。
彼の鼻歌が、音量を増す。
テレビでひまつぶしに見ていた音楽番組には、ほぼ確実に見当たらないであろう、異様な階調の音律。
旅のはじめに、既に死んだ彼のスマートフォンから聞こえてきた、それだ。
にんげんに再現できないはずのそれを、青年は少々たどたどしくも朗々と、歌い上げる。
もはや生きものの一匹も見当たらない街路に、その少し音痴気味なメロディは、のびのびとして谺する。
気分がよかった。
ただただ。
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