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あるく。
あるく。
無我夢中で青年は、あるきつづける。
目指すゴールはもう、すぐそこに。
彼は心なしその身を弾ませながら、目の前へと視線を向けていた。
そこには、ひとのすがたがあった。
骨張った、若年の男のシルエット。
肩をすこしだけ過ぎるくらいに、自由気ままに伸ばされた濡羽の髪。
感情をすべて落っことしてきた人がたに似た、色をなくした肌理のこまかい膚。
良くないものに交わってしまったように際立つ朱い唇に、……深い深い、淵無しの両眼。
彼のことを、青年は、まさに――恋い焦がれるように、待ちわびていた。
たたたっ、と。
いままで辿ってきた道程での疲れなど、ぜんぶ吹っ飛んでしまった――そんな感じの、軽やかな足取りで、青年は男のもとに駆け寄っていく。
そのシルエットが、青年へと焦点を合わせて、満面の笑みをうかべる。
――その瞬間。
彼のすがたかたちが、大きく変容しはじめた。
ぐにゃり、ぐにゃり、と不定形に、その全体を通して蠢きつづける。その動きは、どこか、嬉しがっているようにも見えた。
「よく来たねえ。――■■■くん」
青年の名を、呼ぶ。いまはもう、世界の誰にも忘れ去られた、彼自身にすら解読できないその、音の並びを。再度、その音列をいとしげに唱え、両のうでをひろげる。
「僕のもとに来ることを、えらんでくれたんだ。うれしい。……きっと受け入れられないと、実は僕、心のなかで思っていたのに」
青年はぼうっと定まらない目をしたまま、目の前の、一般的には『異形のもの』と形容するべき彼を見つめている。
夢の内に捕らわれてしまったように、その両のうで――もはや二本以上に増えつつあった――のなかに丸々、その身をすっぽりと収められても、青年は身じろぎのひとつすらしない。
ずいぶん落ち着いているね。
異形が彼をやさしく抱きすくめたまま、ふしぎそうな顔をして、言った。
どうして?
問う。
青年はしばらく、それに対する回答を、練っていた。
ちからの抜けた笑いが、ゆるくひらいたその、血色のない唇からもれる。
「みいんな、忘れたかったから」
ぎこちなく、微笑む。その頰に、きらりと闇のなかで光る、雫が垂れる。
じゃあ、なんで泣いているんだろう。
わからないね、とつぶやき、うでの力を少し、強める。
「まあ、どのみち、それはもう考える必要のないことだよ。……ねえ」
もう一度その、忘れ去られた名を呼ぶ。青年はもう、まばたきをしていない。
その身体は冷えていた。
哀しそうな瞳。
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