明けない夜など、ない。

19/20
前へ
/20ページ
次へ
 あるく。  あるく。  無我夢中で青年は、あるきつづける。  目指すゴールはもう、すぐそこに。  彼は心なしその身を弾ませながら、目の前へと視線を向けていた。  そこには、ひとのすがたがあった。  骨張った、若年の男のシルエット。  肩をすこしだけ過ぎるくらいに、自由気ままに伸ばされた濡羽の髪。  感情をすべて落っことしてきた人がたに似た、色をなくした肌理(きめ)のこまかい(はだえ)。  良くないものに交わってしまったように際立つ朱い唇に、……深い深い、淵無しの両眼。  彼のことを、青年は、まさに――恋い焦がれるように、待ちわびていた。  たたたっ、と。  いままで辿ってきた道程での疲れなど、ぜんぶ吹っ飛んでしまった――そんな感じの、軽やかな足取りで、青年は男のもとに駆け寄っていく。  そのシルエットが、青年へと焦点を合わせて、満面の笑みをうかべる。  ――その瞬間。  彼のすがたかたちが、大きく変容しはじめた。  ぐにゃり、ぐにゃり、と不定形に、その全体を通して蠢きつづける。その動きは、どこか、嬉しがっているようにも見えた。 「よく来たねえ。――■■■くん」  青年の名を、呼ぶ。いまはもう、世界の誰にも忘れ去られた、彼自身にすら解読できないその、音の並びを。再度、その音列をいとしげに唱え、両のうでをひろげる。 「僕のもとに来ることを、えらんでくれたんだ。うれしい。……きっと受け入れられないと、実は僕、心のなかで思っていたのに」  青年はぼうっと定まらない目をしたまま、目の前の、一般的には『異形のもの』と形容するべき彼を見つめている。  夢の内に捕らわれてしまったように、その両のうで――もはや二本以上に増えつつあった――のなかに丸々、その身をすっぽりと収められても、青年は身じろぎのひとつすらしない。  ずいぶん落ち着いているね。  異形が彼をやさしく抱きすくめたまま、ふしぎそうな顔をして、言った。  どうして?  問う。  青年はしばらく、それに対する回答を、練っていた。  ちからの抜けた笑いが、ゆるくひらいたその、血色のない唇からもれる。 「みいんな、忘れたかったから」  ぎこちなく、微笑む。その頰に、きらりと闇のなかで光る、雫が垂れる。  じゃあ、なんで泣いているんだろう。  わからないね、とつぶやき、うでの力を少し、強める。 「まあ、どのみち、それはもう考える必要のないことだよ。……ねえ」  もう一度その、忘れ去られた名を呼ぶ。青年はもう、まばたきをしていない。  その身体は冷えていた。  哀しそうな瞳。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加