明けない夜など、ない。

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 青年はふう、と一つ息を吐いて、ポケットへとスマートフォンをしま――おうとした。  画面が明るくなる。  以前、家で今待っている後輩と撮った写真を、そのロック画面の待ち受けにしていたのだが。  元気良くピースサインを決めている、後輩の顔だけが、……真赤に染まり見えなくなっていた。  まるで塗りつぶされたように。  叫び声を上げ、青年は手に持っていたスマートフォンを取り落とす。それをおそるおそる拾おうとして、あれ、と声を洩らした。  見当たらないのだ。  地面に落ちたはずのスマートフォンが。  ……いや、あった。  真っ暗になった画面は、周囲の暗闇とぴったり合わさって調和していた。  放置していた画面のヒビ割れのお蔭で、何とか青年はそれを視認する。  拾い上げ、電源ボタンを長押しする。  だが、スマートフォンの明かりが周りを照らすことはもう、ないようだった。  はあ、と嘆息し、前をじっと見つめる。  やはり、自身の限定的な視界に頼るしか、今の彼に手段は残されていないようだった。        ◇  どこからか、犬の遠吠えが聞こえた。  それが過去にかわいがっていた犬の声に、似ているような気がして、青年はふと立ち止まる。  彼はふわふわしたコーギーだった。やけに薄い色の、あぶらあげみたいに美味しそうな見た目の犬だった。  名前は、たしか。 「そーくん……」  なぜか急に、頭が痛む。  嫌な記憶。  桜の木。あれは、小学校の裏手。  嫌な記憶。  埋まるもののない墓標。  その記憶を上塗りするようにまた、鼻腔の奥であまい香りが沈む。  青年は目を伏せた。  犬の声はもう、聞こえなかった。  いくら、耳を澄ましても。  きっと、彼は桜を見に行ったのだ、と青年は、静かに微笑む。  その顔から笑みが消えたときまた、彼のかわいがっていた犬の顔も、彼のなかから、ゆらゆらと霞んで消えつつあった。  頭痛がかすかに、彼をさいなむ。  ああ、とちいさく、詠嘆する。  なにか、大切なものを忘れていくのだ、ここにずっといると。  青年は、なかば無意識に、そのことを悟りつつあった。  いけない。はやく、ここを出なければ。呟く。  このままだと、なにかやわらかくて傷つけてはならないものを、どんどん、無くしてしまう。  胸を平手で押さえつける。聞いたことのない、速さをしていた。  ざわ、と木々が揺れる。  青年を囲む街路樹が、四方八方から彼のことを圧迫するように、風にさわぐ。  針葉樹の葉が飛び、彼の頰を刺す。  まだ行くんじゃあない、とたしなめるような、そんな痛みだった。
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