明けない夜など、ない。

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 青年は何回か両目をしばたたき、なにもかもを無くしてしまいつつある彼に、問うた。 「あの。つかぬことを、お尋ねしますけれど……本当に、ぜんぶ忘れてしまうんですか?」  ここに、ずっといると。  人影は「そうだよ」といい、すこしだけ、笑うような気配を見せた。 「なんにも覚えちゃあいないんだ。ほんとうに、なんにもね」  家族のことも、初恋のことも、仕事のことも、――なんにも、頭のなかにないんだ。  ぼくはからっぽさ。頭のなかも外も、だから、こんなふうにまっしろけ。  冗談めかして自分のことを指差し、あはは、と愉快そうにまた、声だけで笑う。  さっきよりも、幾分か、沈んだ声をしている。そう、青年には聞こえた。 「さて。ぼかぁそろそろ、行くよ」  人影が、ベンチから立ち上がる。 「いちどにたくさん、ひととお話をし過ぎると、疲れちゃうんでね。それに、巻き込んじゃうと、いけないし」 「巻き込む?」  青年は問いかけた。  しばらく座って休んだことで、落ち着いてきていた動悸が、また、速さを増そうとしていた。 「何に……ですか? えっと、……」  棒人間の名を呼ぼうとして、思いとどまる。  そもそもそれを、彼から聞いていなかったし、なぜか、……そうして、明確な「名」を伴い彼を呼ぶことが、はばかられる気がした。  いちおう、ここは、異常空間なのだから。  怪異にとって、「名前」は、とても重要な概念である――そんな、インターネットで拾い読んだ記事のことをふと、青年は思い出していた。 「ああ、安心しなよ」  そう言ってまた、彼がすこし、落書きの口角を上げる。 「名を教えてあげる気とかはないし、そもそも、それも忘れちまった。きみに、命名してよねッ、なんて迫る気も無い。ぼくはまだ、そこまでは、正気を失ってはいない。いないはずさ」  腐っても、おなじにんげんだったんだからね。  口の端を微妙に数ミリだけ下げ、低い声で彼は言う。「――でもね。きみ、気をつけなね」  やっかいなやつに好かれているよ。あいつは、完全に、……別の世界から来たなにか、だから。 ねえ。気をつけないと、いけないよ。  言い含めるように、おもむろに言葉を連ねる。   不意にその目が、見開かれた。 「あーあ。おいかりだ」  刹那。  ばんッ、という破裂音とともに、彼のすがたが無残にひしゃげる。  めきめきめき、ばきばきばき、という凄まじい音に、青年は思わず目をおおった。  ごりごり、べきべき、とまだ続いていた音が、ようやく途絶えた。  目を開ける。
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