明けない夜など、ない。

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 巨大な球体が転がっている振動を、すぐ近くで感じる。  一瞬でも立ち止まったら――想像したくもない末路を必死に脳内から振り切り、青年は懸命に、走り続ける。  日ごろ運動をそんなにする方ではないからか、わりとすぐに、呼吸が荒くなってくる。左の肺のあるあたりに手を持っていき、ぎゅっ、と強く、押さえる。その手は酸素の不足と恐怖によって、がくがくと小きざみに震えている。  いますぐに立ち止まって、思いっ切り深呼吸をして酸素を取り込みたい――酸欠になった頭が、そう叫びながらあばれている。  だがしかし、背後から感じるものすごい圧が、むろんそれを許してはくれない。  そこには動かしようのない死が待っている!  頭の中からあらゆる思考が消え失せた。ただ、ひたすらに走るのみの機構と化して、青年は前へ必死に逃走をつづける。  ちいさく、青年の唇から声が洩れた。その足が縺れ、身体がななめに傾ぐ。  その表情は色濃い絶望に塗りたくられていた。腕をバレエを踊るように広げたまま、宙を舞う。 ぎゅっ、とかたく目を、つむる。  地面に投げ出される青年。そのまま彼は、後ろから追いかけてきていた巨目玉に、うどん生地のようにぺっちゃんこに伸ばされ切ってしまう――と、思われたのだが。  不思議なことに、それは起こらなかった。  身体をこわばらせて終焉を待っていた青年が、おそるおそると顔を上げて、背後を見やる。  目玉はすぐ真後ろでつぶれていた。  白目のなかで血管が大小問わず破裂し、血走るどころか血しか無いような色に染まっている。  黒目とその中心の瞳孔が、苦しそうにななめになって歪んでいた。  きぃ、と耳障りな音が、数秒遅れて聞こえる。青年はすこし考えたのち、この目玉のあげた悲鳴だということに、ようやっと思い至った。  きぃ、きぃ、と小動物の鳴くような声を上げ、目玉の表面が雫に潤む。泣いているのか、と彼は呟き、おのれの右の手をじっと見つめた。  触れられた目玉がきぃい、と、ひときわ甲高い声を上げる。青年はすこし微笑み、そのやや巨大 すぎる眼球の表面を数回、そっと優しく撫でた。  よかった、もう追いかけてこないでくれな――そう苦笑ぎみに言葉をかけて、彼はまた、前へと視線を向ける。  ラブコールを贈ってきたあわれな目玉の流した涙を、パーカーのすそで乱雑に、時間をおしんでいるように拭う。  背を向ける間際に、ほんの刹那だけ軽く笑み、手を振る。  そして、これからも未知の待つであろう先へと急いだ。
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