青い月

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青い月

無重力で、広大に広がるエメラルドグリーン 海の中を(あかり)は泳いでいた。 …夏休みもあと僅か。 コーディネーターがこちらに合図を送る。 見上げると、双子の妹の(ひかり)は、既に浮上を始めていた。 ダイビング歴5年の新米助産師の(あかり)は、新しいウェット・スーツを買った。 ――― 白 澄み切った水中の中でよく目立つ色だ。 上昇していく(ひかり)は、かなり小さくなっていた。 写真を撮り続けていた(あかり)は慌てて後をついていく。 数メートル先から、黒い魚影が真っ直ぐこちらへと向かってきた。 (あかり)(ひかり)の間を、銀色の砂嵐が遮る。 ――― イソマグロの群れ ぐるりと(あかり)を取り囲むように 大きな螺旋を描き、視線を阻む。 これほどの大群はかつて見たことが無い。 チカチカと日差しに反射し美しく光る銀鱗。 そして(あかり)を囲む螺旋は、どんどんと小さくなった。 ――― 一瞬の無音。 …え? 群れがするりと身体を通り抜けた感触。 同時に、その魚群に引き摺られるように、海の底へと引っ張られた。 足元にぽっかりと空いた、濃い青い渦。 それは闇夜に浮かんだ満月のようにくっきりと、そしてきらきらと光っていた。 その中へと魚群が飲み込まれていく。 …落ち着け。 巨大な渦。 吸い込まれる身体。 ――― バシッ。 一際大きな、イソマグロの 尾が顔に当たったのを感じた。 …落ち着け…るわけがない。 (あかり)と魚たちは鱗を散らし、ひしめき合いながら、水底へと落ちていく。 ♬*.:*¸¸ 「(あかり)はどこっ?!」 先に船にあがった景。 「インストの人と上がってくるんじゃない?」 「下で写真撮ってたから」 仲間が機材を外しつつ答えた。 先程まで穏やかだった海は、強風で荒れ始めた。 「今日はもう帰ろう」 船室から出てきた船長が言った。 波で大きく上下し始める船。 「こんなに良く晴れてるのに…」 雲一つない空。どす黒く色が変わり始めた海。 そして白い波が立ち始めた時、インストラクターが上がってきた。 「あれ?お姉さんは?」 「えっ。一緒じゃないんですか?」 「いや…僕が最後で、他には居ないよ」 そう言ったが、インストラクターは船長が止めるのも聞かず、海へと戻る。 「急いでくれ!」 船長が大きな声で叫んだ。インストは手でOKサインを出すと直ぐに潜り始めた。 真っ青な空の向こうには、入道雲が膨れ始めていたが、それに抗う様に太陽は容赦なく照りつけている。 「私も行く!」 (ひかり)が一度脱ぎかけたウェットスーツを再び着始めたのを見て、船長が強い口調で止めた。 「駄目だ…この分じゃ下も酷く荒れている」 澄んでいた水は、濁りはじめ不気味な暗黒色に変わっていた。10分もすると、船に大きな波がかぶり始め、船酔いを起す仲間が出始めた。 「見つからない…下も酷く濁ってて、1メートル先も見えない。潮の流れがおかしいんだ」 インストラクターが上がって来た時には、数メートルの波がうねり始めていた。 「すまない」 (ひかり)は、大きな声で(あかり)の名を叫んだ。 ♬*.:*¸¸ (あかり)は薄暗い部屋の中で寝かされていた。柔らかな香の匂いがうっすらと部屋に漂っている。 …掻巻? それはずっしりと月の上に掛けられ、ダイビングスーツの代わりに浴衣を着ていた。 「ああ…。」 漏れ聴こえてくる声。 少し開いた障子を隔てた通路。その先の襖の間から、光がちらちらと漏れていた。 「ああ...恥ずかしい。声が出てしまいます…」 若い女の声が聞こえる。 「そうだ…身体で覚えなさい」 そしてそれに答えた男性の声は、なんとも涼やかだ。 …ちょっ…。 ―――男女の秘め事。 掻巻の中に再び潜り込んだ。 …これって…。 (あかり)はどきどきしながらも、聞き耳を立てていた。 「はぁ…なんか…おかしい…気分が…ふわふわと…」 男女が動くたびに薄暗い光が遮られ、再び明るくなる…を何度も繰り返していた。 「駄目だ…それでは、旦那様は満足させられないぞ」 男は息を乱すことも無く、女に囁いている。 「気をやるのは、まだ早い」 弾ける様な音が、徐々に部屋に、そして廊下へと響きだすと、嬌声が一段と高く滑らかに漏れてくる。 「だめぇ…」 それは愛らしく年若い女の声。 「感度の良い乳房をもっと私の方へと突きだせ…と同時に恥じらいを忘れてはならぬ…そうだ」 女の喘ぎ声は、益々艶を増していく。 「はぁ…くっ。(ゆき)さまぁ…鈴は…気が…ふれてしまいそうぅ…」 「まだ四半刻も経っていないぞ。貴女が先に、気をやってしまってどうするのだ?」 男は優しい声とは裏腹に、律動は激しく大きくなり、それに伴いカタカタと障子が音を立て始めた。 …シハントキ?? 聞いたことも無い、古めかしい言葉。 「ああ…気が…いきますぅ。もう許してぇ…」 女が一際大きな艶かしい声をあげた時だった。 「おや…起きたんかね」 しゃがれた声が(あかり)の直ぐそばで聞こえた。 「ㇷワッ!」 いつのまにか、音も無く部屋に入って来ていた小柄な女。 盆の上に置かれた、蝋燭がその顔をぼんやりと照らし、ゆらゆらと揺れるたびに皺を深く際立たせた。 「ヒイッ!」 「しっ!馬鹿っ!大声を立てるんじゃ無いよ」 歳は6-70代ぐらいだろうか、見た目に比べ、若さ漲る声をしていて、しゃきしゃきした印象を受ける。 「腹が減ったろう?飯だ」 差し出された膳には、お茶と大きなおむすび。 「それを食べて、今夜は休みな」 その老婆は、愛想の欠片すら見せず、盆をふいっと月の方へと押した。 それを見た瞬間から、月のお腹が激しく鳴り出した。 「あ…あり…がとう…ございます」 (あかり)は小声でお礼を述べた。 「なんと!あんた…」 老婆は、一瞬だけ眉をくいっとあげてみせた。 「え?」 戸惑う(あかり) 「まぁ良い。今宵はゆっくり休みな」 「あの…ここは…」 「あん…あん…もう堪忍して…あああああっ!」 (あかり)の問いは、女の嬌声にかき消され、同時にガチャガチャと、食器が擦れ割れる音が聞こえた。 「あーっ…たくっ!」 女は忌々しそうに言うと、そばの障子を音もなく開けた。 そして忍者の様な素早さで、向かいの部屋へと入った。 「うううう…」 老婆を押し除けるように、部屋から誰かが出てきたので、月は慌てて息を潜めた。 「今日はこのぐらいで良いだろう。ゆっくり休め」 男の冷たい声が聞こえ、廊下に小さな音を軋ませ乍ら歩き去った。 「お鈴?大丈夫かい?」 先ほどの女の声。 「(ゆき)ときたら…仕方がないねぇ」 大きく開いた襖から、ひくひくと痙攣している女の白い小さな身体がみえた。 「あれ程手加減しろと言うてるのに」 ――― ぱちん。ぱちん。 女の頬を叩くとうーんと小さな声をあげた。もぞりと動いた小さな女に浴衣を掛けると、再び(あかり)の部屋へと戻ってきた。 「言い忘れたけどね、厠は突き当りの右側だ。もう今日は遅い。話は明日だ。お休み」 女はそれだけ言うと、ぱたぱたと去っていった。(あかり)は塩が効いた冷たいおむすびを食べ終わると、障子を開けて廊下へと出た。 …真っ暗。 トイレへ行きたくも無かったが、外の様子が知りたかった。 …凄く大きな屋敷?それとも旅館? 障子がずらりと両サイドに並んでいた。 ....不思議な音。 その音は丁度、厠の方から聞こえてくるようだった。 踏み出すたびに床が大きく軋み、まるで船を漕ぐような渋い音が廊下に響く。月明りを手掛かりに、縁側に出ると手水鉢から水がちょろちょろと流れており、音はそこから聴こえて来た。 …金属の様な…変わった音色。 澄んで淀みのない金属音のようにも、風鈴のようにも聴こえる。その音に導かれるように(あかり)は真っ暗な廊下をすすんだ。そして女に言われた通り、突き当りを右へと曲がった。 縁側には月明りが差し込み、綺麗に手入れをされているらしく、板張りの床はつやつやと、重厚で鈍い光を放っていた。 トイレのドアをそっと開けると、床板に大きな穴がひとつ開いていて、備え付けの箱には藁の束。 …え。 そして鼻を衝く悪臭。 「今時、水洗じゃないなんて…ありえない…」 (あかり)は、そのまま扉を閉めると、元来た廊下を戻り始めた。 「あ」 真夏なのに少々肌寒い夜だ。(あかり)は、小さくくしゃみをした。ふと先を見ると、縁側から庭へと降りる、石段の近くに佇む人影が見えた。その前には大きな池。時折、銀色の背びれが満月に反射してきらきらと光った。 …さっきのお婆さん? 銀髪の長い髪を無造作に後ろで束ねたその横顔は、彫りが深く、異国の人のようにも見え、美しかった。 …誰? 縁側に横たわり長い脚を投げ出し、頬杖をついて庭を眺めている。なによりも目を惹くのは、開けた掛け襟から覗く透き通る様な白い肌だった。 …綺麗。 (あかり)は思わず立ち止まり、その横顔を眺めた。 「私の顔に何かついているか?」 …!! 突然、その人物は月の方を見もせずに、言った。 …男の人? 聞き覚えのある声。 一瞬きょろきょろと辺りを見渡したが、誰も居ない。そこで初めて自分に声を掛けたのだと知り、月は慌てた。 「え。い…いえ」 池で優雅に泳ぐ鯉を眺めている、その涼やかな声の主は、先ほどまで女と愛を交わしていた男だ。 「人の顔をジロジロと眺めるなど、余程の下賤な育ちとみえる。今宵の月は、見事だと言うから酒を用意させたのに、これでは興醒めではないか」 不機嫌に、然もこちらに聞こえるように、ゆっくりと盃を傾けている。少し肌蹴た着物から、厚い胸がチラリと覗き、艶かしい。大理石の様に乳白色で触れたくなる程だった。 「ご…ごめんなさい」 男は、盆の上にのっていた酒を、お猪口に少し注ぎ口をつけた。その姿すら風情があった。 「ふん…私には、ただの大女にしか見えんがな」 …お…大女って。 (あかり)は、確かに少し背が高い。しかし、大女と言われるほどでもない。 「あ…あなたこそ、初対面なのに、し…失礼です」 (あかり)は男の返事も待たずに、早足で部屋へと戻り始めると、床がギシギシと酷く軋んだ。 「言い忘れたが、この屋敷は古くてな…どすどすと歩くと、床が抜けるかもしれぬ」 男は(あかり)の背中に向かって言った。 …何ですって?! 「“天は二物を与えず”って、良く言ったもんだわっ」 (あかり)は、聞こえよがしに言った。イライラしつつ歩くと、床の音が余計に大きく聞こえる様な気がした。 …一瞬でも見惚れてしまった自分が馬鹿だったわ。なんなの? 男は、(あかり)の背中を見送りながら、その薄い唇に笑みを浮かべた。 一瞬だけだったが、男の身のこなしは優雅で、まるで茶道の先生か歌舞伎役者のようだった。 …厭味ったらしいことを,初対面なのに平気で言うなんて、あっちこそお里が知れるってものよっ。 どすどすと歩く途中で、ふと気が付いた。 …あ。電話借りれば良かった。 しかし、あの男に頼むのも癪だ。老婆を探したかったが、屋敷をうろうろすることも憚られた。 …渦に吸い込まれてから…それから。 記憶を辿った。そして何故この屋敷に居るのか、ここがどこなのかも、(あかり)には、さっぱり分からない。 …なんですぐに聞かなかったんだろう。 後悔はしたものの、あの時は起き掛けで、Hなシーンを見せつけられ、それどころでは無かった。 「はぁ~困ったなぁ」 携帯は船の上に置いたままで、持っていた筈のカメラも無かった。着ていたウェットスーツは?ボンベは? …今晩は泊まらせて貰って、後日お礼をきちんとすればいいよね。 広い昔風の屋敷はまるで高級旅館の様だ。 ――― しーん。 まるで耳に真綿を詰め込まれたかのように、何も聞こえなかった。 …真夜中は過ぎているかも。 静寂に包まれた居心地の悪さとは対照的に、部屋に戻った月は、柔らかくずっしりとした掻巻に包まれると、再びゆるゆると眠りに落ちた。 ♬*.:*¸¸ (ひかり)は、岬にある祠に向って歩いていた。 昼間、船上で(あかり)と、話したことを思い出していた。 「今日はスーパー・ブルームーンなんだって」 (ひかり)が、(あかり)に何げなく言った。 「なにそれ?」 ダイビングスポットへ、着くまでの間の無駄話。 「え~知らないの?ひと月で満月が2回見られて、しかも月が一番明るく大きく見える日なんだよ♪夜は海辺に出てお月見しようよ!」 ふたりはそっくりだが、(あかり)はもっぱら(ひかり)の聞き役にまわる。 「お月見なら、あの岬が良いよ」 ふたりの話を聞いていた船長が指を指した先には、海へとせり出した小さな丘があった。 「あの祠は、何を祭っているんですか?」 丘の上には、小さな石造りの祠が見えた。 「なんでも、昔ここに流れ着いた人魚の魂を、慰めるために建てたものらしい」 「へ~人魚♪なんかロマンを感じるね」 「前に遮るものが何も無いから、月がとても綺麗に見えるんだよ。良縁や恋愛成就のお願いをすると叶うと昔から言われてて、地元住民の隠れたデートスポットになってるんだよ」 「え~カップルだらけだったらどうしよう?」 景が嫌そうな顔をしてみせた。 「ははは…カップルよりも、爺さん婆さんが涼みに行く方が多いかもな」 「こんなチャンス滅多にないよ!月。旅館でご飯食べた後、一緒に行こう!!」 「そうだね…なんかラッキーなことが、起こるかも知れないね」 …あんな他愛もない会話が、最後になってしまうなんて。 両親も駆けつけて、旅館で捜索隊の報告を緊張した面持ちで待っていた。罪悪感から、景は旅館を抜け出して来たのだ。 祠に着くと、眼下には黒い海が広がっていた。ただ浜辺には簡易テントが張られ、多くのボランティアが捜索隊と一緒に働いており、騒がしい声が、丘にまでよく響いてきた。 景は、祠に向ってそっと手を合わせた。 「月…どうか無事に帰ってきて…」 大きすぎる満月は、水平線の向こうからゆっくりと青白く上り始めた。 ♬*.:*¸¸ 「…それにしてもはぁ。真っ白な肌じゃこと」 「あんたが見た時にはヒレがあたって?」 「ありゃ…足生えとる!」 「どこかのお姫さん?」 「異人のようにも見えるわぁ♪」 (あかり)は誰かのひそひそ話で目が覚めた。 …朝? 周りを見回すと障子が半分ほど開いていた。 「ありゃ…起きた」 数人の男女が月を見ていた。 「なっ…!!!」 月は慌てて顔を掻巻で半分ほど隠した。覗き込んだ人々は、皆着物で、女は丸髷、男は総髪だった。 そこに居た全ての人々が、まるで時代劇から抜け出したような姿だ。 「お…おはようござい…ます」 戸惑いつつも、月は小さな声で挨拶をした。 「言葉をはなしとる!!」 「ひゃ~たまげた」 …なんか。リアクションが大げさなんだけど。 「はいはい…どいだ。どいた!」 昨日の老女が人々を押しのけて、部屋へと入ってきた。 「油売ってないでさっさと仕事へ行きなっ!」 そして、手に持っていたお膳と着物を畳の上に置くと、ぴしゃりと障子を後ろ手で閉めた。 「全く…。」 月は、慌てて掻い巻きから這い出し、正座をし老女にお礼を言った。 「あの…すみません。電話を貸して頂けますか?」 「デンワ?なんだねそれは?朝飯だよ。食べたらこれに着替えな。隣の村で産気づいた者がいるんで、わたしゃ手伝いに行ってくるからね。この屋敷から出ちゃいかんよ。何かあったら小間使いの小鳥(ことり)を呼びな」 「あ…あの…」 老女は着物と朝食を置き部屋を出て行くと、部屋の前でぐずぐずと屯していた人々を邪険に追い返した。 「一体 どうなってるの?」 ガヤガヤと声が遠ざかり、再び静かになった屋敷。 老女の運んできたお膳の上には、山盛りの麦飯と、湯気の立つみそ汁、魚の干物に、漬物がおかれてきた。 …豪快な盛り付けだけど、美味しそう。 お腹がぐーっと大きな音をたてた。 「失礼しやす」 障子の向こうから声がしたので、お腹の音を聞かれたかと、月は慌ててお腹を押さえて姿勢を正す。 「は…はい…どうぞ」 音もなく開いた障子の向こうには、女の子が座っていた。 「身の回りのお世話をしやす、小鳥(ことり)と申しやす。御用がありましたら、呼んで下せぇ」 障子を閉めようとする女の子に、月は慌てて声を掛けた。 「こ…こは、どこですか?」 「へ?」 7-8歳ぐらいであろう女の子は、きょとんとしていた。 「水琴窟だ」 「スイキンクツ?」 聞いたこともない言葉。 「はい」 「水琴窟って?」 小鳥は部屋に入った。 「閨房屋でごぜぇます」 月の寝床を静かに片付け始めた。 「ケイ…ボウ?」 「はい。あたしもよく分からねぇんだけれど、みんなはそう呼んでる」 月は全く分からなかった。 「ここは…どこ?何県?」 「ケン?…聞いたこともねぇけど」 「東京都とか、横浜市とか」 「ああ…横浜村のことか?」 …む…村? 「ここは、武蔵国だ」 「ムサシノクニ?」 「はい。人魚様は父島の近くで、喜平の網に引っかかったってぇ大人たちが話してました」 月は小鳥に色々と質問をしてみたものの、どうも話が噛み合わなかった。 「あたしも人魚様に、尾っぽがついてるところ見たかったなぁ」 小鳥は正座をしている月の脚を、ちらりと見て笑った。 …もしかして。 「今の天皇…じゃなかった…天子様のお名前は?」 小鳥は、くすっと笑ったが、慌てて月に謝った。 「すんません。人魚様がひとの世界のことが気になるなんて、面白れぇと思って」 月が食べ終わったのを見ると、小鳥はお茶を煎れた。 「仁孝様です」 小鳥は、小さな声で言った。 「ジンコウさま?」 …ジンコウ?聞いたことが無い。 「はい」 「じゃぁ…将軍…様のお名前は?」 「家正(いえただ)様です」 「あの…秀忠様とか家定様とかでは無くて?」 …イエタダッテダレヨ? 「秀忠様は2代目でいらっしゃいましたが、今は12代目の徳華 家正様です」 …しかも徳川じゃ無いの? 小鳥は、歴代将軍の名前を次々に言ったが、月が知っている名前もあれば、全く知らない名も挙がった。 「竜宮城には、天子様のような方がいらっしゃるですかね?」 月の耳には混乱しているからか、少々ぼーっとしており小鳥の言葉は入ってこなかった。 「人魚様?…大丈夫か?」 …これってもしかして そんなことが起こるはずも無いと、必死に否定したかった。 「人魚様…顔色が悪ぃぞ」 お膳が、目の前でくるくると回り出したかと思うと、気分が悪くなった。 …夢だ。 「ちっと横になってくだせぇ」 小鳥に支えられ、月はその場に横になった。 …夢を見てるに違いない。 「人魚様…酷ぇ熱だ」 小鳥は、月の額に手の甲をそっと当てた。 …きっとリアル過ぎる夢をみてるんだ。 「小鳥ちゃん…だ…大丈夫だから…」 言葉と裏腹に、月の身体はぶるぶると震え始めた。思わずその場に横になった。 …世界が、ぐるぐると回っている? 「大変だ…ちょっと待ってて下せぇ。透さまぁ!透さまぁ!」 …透って…昨日の…。 部屋を飛び出していく小鳥の足音を、時々希薄になる意識の中で聞いた。 …ん。なんだかゆらゆらしてる。 柔らかい優しい香の匂いが、揺れるたびに漂った。 月はぼーっとする意識の中で、声を聞いていた。 「小鳥…心配するな…」 …嫌味なあの男の声。 「だ…大丈夫…だ…から」 気がつくと、(あかり)(ゆき)に抱えられていた。 「下…ろしてっ」 透の腕の中で暴れてみたものの、びくともしない。 「に…人魚様…大人しくして下せぇ」 おろおろしている小鳥を、透は鼻で笑った。 「婆さんは?」 涼やかな声が、月の耳元に響いた。 「お産で…隣村に…経産婦だから、遅くはならねぇと思います」 月が足掻いても、男はびくともしなかった。 「そうか…では、小鳥。石風呂を見て参れ」 「湯殿では無く、石風呂…ですか?」 「早くしろ。大女は重いんだ」 小鳥は頷くと、慌てて長い廊下を走って行った。 「なっ…」 月はその言葉を聞いて、怒鳴った…つもりだったが、それは弱弱しかった。 「あなた…し…失礼だって言ってる…でしょ…」 「キーキー煩い…大女」 「こ…このっ…とーへんぼくっ!!…は…離し…て。」 声に力が入らないどころか、ジタバタしようにも力がうまく入らないし、天井がぐるぐると周り始めた。 透は、じろりと月を見た。先程までの震えはどこへやら。月の身体は火のように熱く、浴衣はぐっしょりと汗で濡れていた。 「ふんっ…暴れると余計熱があがるぞ?」 透は、意地悪く笑いつつも、どんどん歩いていく。突き当りには、別棟へと続く渡廊下があった。どうやら風呂はそこにあるらしい。 「昨日は、どなたも使ってねぇです」 小鳥が息を弾ませながら戻ってきた。大きな岩の前に引き戸があり、そこから硫黄の香りが微かに漂っていた。 …洞窟? 「そうか…ならば丁度良い」 月を抱えて歩く透の前から小鳥は小走りで戻り、引き戸を大きく開けて、薄暗い中へと入った。 「ちょ…どーする…つも…り?」 小鳥が薄暗い部屋の窓を次々と開けていくと、明るい日の光が部屋全体を照らし、そこが脱衣所であることがわかった。 「黙れ…お前の声は頭に響く」 そして脱衣所を過ぎると、大きな岩風呂が見えた。 もくもくと湯気が立ち昇り熱い…が透はそこを通り過ぎた。 その先にはサウナの様な部屋があり、2-3人が入れそうな木枠の湯船。外から繋がる配水管からちょろちょろと水が出ている。 「よし」 透は、月を抱えたまま、躊躇なくざぶりと湯船に浸かった。 「ひゃっ…み…水!」 月が悲鳴をあげると、小鳥が今にも泣きそうにぶるぶると震えて叫んだ。 「ゆ…透さまっ!!そんな乱暴なことをしちゃいけねぇです」 冷たい水風呂…は磯の香りがした。海の水を引き込んでいるらしい。最初は驚いた月だったが、熱で火照った体がみるみる落ち着いてくるのが分かった。 「…楽になったようだな」 透が一瞬優しい笑顔を浮かべ、大人しく抱かれる月をちらりと見た。冷たい湯船の中で、透の体温が肌を通じてじわじわと伝わっていた。 「…あっ」 透の視線の先…濡れて月の身体にぴったりと纏わりつく浴衣。 冷えて硬くなったふたつの突起。それに気が付いて、月は慌てて胸を手で隠した。 「見ないでっ!」 「隠す程も無かろう…私が、お前の何処を見ると言うのだ…裏も表も判らぬのに…」 …なんですって!? 「ひ…酷いっ」 「正直に申したまでの事…気に障ったか?」 水風呂の中で、突然解放された月は慌てた。 「もの言う気力がそれだけあれば、大丈夫であろう」 透は、するりと立ち上がり湯船から出ると、濡れた着物を恥じらいもなく月の見ている前で脱ぎ去った。 「小鳥…後は任せた。着替えた後は、葛湯を飲ませて部屋で静かに寝かせてやれ」 気が付かなかったが、白い肌とは、対照的に筋骨逞しく彫刻の様だった。歩くたびに尻に、筋肉の深い窪みが出来た。 「は…はい」 透は、小鳥が持ってきた着替えを掴むと、少し冷えたと言い、その場を立ち去った。 「ささ…人魚様も上がって下せぇ」 小鳥は月に駆け寄り、自分の着物も濡れるのも構わず、ふらふらする月を支えた。 「あちらの湯で、塩だけでも流して下せぇ」 小鳥は、甲斐甲斐しく月の世話を焼いた。 「小鳥ちゃん…ありがとう」 月が礼を述べると、小鳥は礼なんて勿体ねぇとはにかんだ笑顔を見せた。 夕方,老女が屋敷に戻る頃には、熱もすっかり下がっていた。 老女は、紅サンゴの簪を差している事から“かんざし婆”とか“お婆”などと呼ばれる、腕の良い産婆である事が判った。 「調子はどうだ?」 かんざし婆は座敷へとやってきて、無愛想に言いながら土産で貰ったらしい蜜柑を月にくれた。 「本当にお世話になりました」 月は漁師の喜平に助けられたが、真っ白なダイバースーツにフィンを付けていた為、人魚が網に掛かったと村中が大騒ぎになったと、かんざし婆は教えてくれた。 「あんたの姿を見た時にゃ、あたしだって腰を抜かしたよ」 偶然、村にお産の手伝いをしに来ていた、かんざし婆に村人が相談をし、人魚ではあるが、女人の事だからと閨房屋を営む、透の処へと運ばれたらしい。 「あの…そのケイボウヤって何ですか?」 不機嫌そうな顔をしている、かんざし婆に恐る恐る聞いてみた。 「ああ…閨房屋とは、結婚前の生娘に、色事を教える輩のことさ」 …イロゴト。 「正真正銘の生娘を、嫁に貰うなんて変人のすることさ」 かんざし婆は、真面目な顔で小鳥が出したお茶を音を立てて啜った。 「ここには商人、武家の娘、お姫様だってお忍びでやってくるんだよ。“未来の旦那様“を楽しませる為の花嫁修行さ」 「花嫁修行…」 「そうさ」 かんざし婆は、小鳥に煙草盆を持ってこさせると、おもむろに煙管に火をつけ、ぷかぷかとふかし始めた。 「でも…娘さん達は嫌じゃ無いんでしょうか?」 見ず知らずの男に体を預けるなんてと、月は暗い気持ちになった。 「あははは。慣習さ。それに閨房屋は、町に何軒かあるんだ。娘達は、好きな閨房屋を選べるのさ。親がなんと言おうとも、選ぶ権利は娘にあるから、嫌がる娘を閨房屋は抱いたりしないんだよ」 …なるほど。 「まっ…水琴窟は、武蔵野国で…いや日本一の閨房屋だから、こっちが客を選んでるぐらいだがね」 かんざし婆は、自慢げだった。 「スイキンクツ?」 「ああ。閨房屋には、それぞれ屋号がついてるんだ。水琴窟はうちの屋号さ」 「この屋敷には、庭の手水鉢の下に水琴窟があるんでね、それでいつしか皆にそう呼ばれるようになったのさ」 かんざし婆は一際大きな煙を吐くと、月をじっと見つめた。 「あんたは…人間のように見えるがね」 月はどう説明したら良いのか、暫く考えていた。 「私は人間です…人魚じゃありません」 「あんた…どこのもんだい?どっから来た?」 月を見据える様なかんざし婆の態度。 「私は…」 月は姿勢を正し、かんざし婆をまっすぐに見つめた。かんざし婆は、煙管を盆に置いた。 「私は、未来から来ました」 長い沈黙。 かんざし婆が、何を考えているのか表情からは読み取れなかった。 「将軍様や天子様の名前から察すると、2〜300年の未来から来たみたい…です」 かんざし婆は無反応だった。 …気がふれた子だと思われるかもしれない。 しかし、それが紛れもない真実だ。 「これからどうするつもりだい?」 かんざし婆は、否定も肯定もしない。 「戻る方法を考えようと思います。家族も心配してると思いますし…」 …もう死んだことになっているかも知れない。 「助けて頂いた漁師さんのところへ行き、話を聞いてみたいと思ってます。その人なら何か…」 「それは駄目だ」 かんざし婆は、月が言い終わらないうちに、 きっぱりと言った。 「あんたが現れただけで、この辺りは大騒ぎだ。昼間だって…あの野次馬達を見ただろ?これ以上、波風を立てたらいかん」 「でも…」 「あんたは、この町のことをよく知らん。役人にでも捕まってみろ」 偉い人と話をすれば、現代へ帰る方法も分かるかも知れないと月は思った。 「その時は説明すれば…」 「あんたの国じゃ知らんが、ここの役人は寛容じゃねぇ。あいつらは話なんて聞かねぇで、牢に人を簡単にぶち込むのさ。人攫いがやってきて、見世物小屋や女郎屋に売られたりするかも知れねぇ。馬鹿な奴らは珍しいものが好きだからね」 月は、でも…と言いかけたが、かんざし婆は言葉を続けた。 「人魚の肉は、不老不死の妙薬として高く売れる」 月は、かんざし婆の言葉に息を飲んだ。 「まずは、ここの生活に慣れることだ」 かんざし婆の言葉は、優しく月を諭すようだった。 「ここに来れたってことは、帰る術もきっと見つかる筈だ」 …そう思いたいけれど、帰れる保証は、今のところ何一つ無い。 「焦りは禁物」 煙管の灰をぱっと捨てて、新しい煙草の葉を丸めた。 「ここに好きなだけ居れば良い…だが、ただ飯を食わせるつもりは無い。人魚だろうが何だろうが、ここに居たければ、しっかり働いて貰うよ。透のお陰で、働き手は、いつも不足してるんだ」 …あの唐変木のせいで? 「あんたは、透と仲良く出来そうだし、ま…頑張りな」 「ど…どこが!あのひねくれ者と、仲良くなんて出来ません」 かんざし婆は、声を出して笑った。 「随分はっきりと物を言うね。まぁ兎に角、この屋敷からは出ちゃいかん。分かったね?村人とも話しちゃいかん」 …それじゃ何も分からないじゃない。 「それから…。」 かんざし婆は、きちんと座り直し言葉を区切った。 「離れにある、透の部屋には入るんじゃないよ」 庭の向こうの小さな離れを指差した。 「それ以外は好きに使いな」 …誰が頼まれたって行くもんですか。あんな男、会いたくもない。 月は、畳に手をついてお礼を言った。 「どうぞよろしくお願い致します」 「ところで、あんた…名前は?」 「伊藤月です。月と書いて“あかり”と読みます」 「ふーん。おかしな名前だね。思うに、村人にはあんたは人魚のままで通した方が都合が良いね」 「でも…」 「それなら世間知らずでも、話の筋は通るからね」 本当にそれで大丈夫なのだろうか?と月は不安になった。もし嘘だとばれたら…その時こそ、大変なことになりそうな気がしたからだ。 「蝮和尚に頼んであんたが、仏門に入ったことにして、尼にでもして貰おうか」 かんざし婆は、腕を組んで暫く考え込んでいた。 …ブツモンって…そんないい加減で良いの? なんだか大雑把すぎる様な気もした。 「良い名前を、あの生臭坊主に考えて貰おうかね。それが良い」 かんざし婆は、ひとりで納得しているようだ。 「尼になれば、馬鹿な輩も手が出せまい」 …馬鹿な輩? 人魚の肉の話と良い、月は少々不安になり、かんざし婆の言う通り、暫く大人しくしていた方が良いかも知れないと思った。
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