1人が本棚に入れています
本棚に追加
0犬はどこに消えた
帝国士官学校の廊下を、真綿のような風が吹き抜ける。柔らかい風は、ついでとばかりに、肩上で切りそろえた髪をなでていった。
春は偽善ぶっている。
ふと、そんなことを考えたのは、授業を終えて、控室に戻る途中のこと。
美深紅は、足を止め、小さく息をついた。
毎年、この時期になると、体調が悪くなる。毎日毎日、体はだるい。それもこれも、春に対する拒絶反応だ。
日に日に暖かくなる日差しが、確実に体を侵食していた。春は優しいふりして、魔獣のよう。のそりのそりと近づいてきて、ついには牙を向く。
紅は窓の向こう、淡い色合いの風景を一瞥して、また、ゆっくりと歩き始めた。
体は、どこもかしこもよろしくない。歩くごとに、右の足が廊下を擦る。こちらは、五年ほど前に負った大怪我の後遺症だった。紅が男性用の軍服を着ているのは、その傷跡を隠すため。
「先生、お先に!」
受け持ちの女学生が、ウサギのような足取りで階段を降りていく。
それを見送りつつ、右手は無意識に足をさすっていた。この傷を負ったのは、彼女たちと同じ士官候補生の時。それ以降、少し走るのも苦労する。
やっとのこと、階段を降りきったところで、紅は気配を感じ、振り返った。
廊下を、黒いアゲハ蝶が飛んでいた。ひらりひらりと優雅に舞いながら、それでいて、まっすぐこちらへ向かって来る。
独特の気配を発する蝶は、術師が作り出した式神。しかも、これは紅の上官に当たる人物のものだ。
一体、何事だろう。
嫌な予感に、紅は眉をひそめた。そして、心持ち、歩く速度を上げる。
アゲハが入ったのは、食堂だった。次の授業が始まっているせいもあり、生徒の姿は少ない。上官を探してぐるっと見回せば、食堂のど真ん中で男が手を上げた。
紺野春市。
ちょび髭に小太り、すだれ頭。誰かのお父さんを、そのまま体現したかのような容姿。ポツンと一人、飲み物を飲んでいる姿は、どこか哀愁が漂っていた。
そんな紺野を学生たちも、誰一人、気にした様子はない。あるいは、学校の事務方とでも思われているのか。袖口の金のラインや肩章は、明らかに上級幹部を示しているのだが。
紅は緩めていたネクタイを締め直し、上着のボタンをきっちり留めてから、男の前へ腰を下ろす。
「お疲れさま。美深君」
紺野は第一声にそう言うと、他の人間からすれば仏頂面にしか見えないが、ごくごくわずかに笑んだ。
「調子はどうだ?」
「ぼちぼちです」
差し障りのない世間話がしばらく続いたあと、不意に紺野が大きなため息をついた。目を伏せ、おもむろに手を組む。それから、少し顔を歪めて、あからさまに困ったと言う表情を見せた。
「何かあったんですか?」
紅は尋ねた。
「うちの犬が、一匹、いなくなった。もう三日になる」
これが本題だったらしい。ある程度のことは、紅も予想をしていたが、衝撃はそれ以上。
「……それは、心配ですね」
平静を装いながら、そう返すのが精一杯だった。
紺野のところに、どれだけの犬がいるのか。正確な数は知らない。紅が知っているのは、たった数人。
紅は小さく深呼吸してから、そのうちの一人の名前を出した。
「チビちゃんでしたっけ?」
いやと、紺野が首を振った。それに、ほっと胸をなでおろす。
「マルの方だ」
「マルちゃんは散歩に行って、行方不明に?」
これも紺野は首を振って、否定した。
「一緒に探しましょうか?」
紅は、自分から言ってみた。それが自分への任務だと思ったから。しかし紅の予想は外れ、紺野の答えは「必要ない」だった。
さらに紺野は、声量をぐっと抑えて「これは、警察の仕事だ」とつけ加えた。
「ポチは散歩に出さない。もちろん、チビもウーたんも。それで、君には、しばらくチビとウーたんの面倒をみてもらいたい」
「私が?」
「彼らは、やんちゃが過ぎて、勝手に首輪を抜け出してしまうからな。手綱を握りしめておけ」
無理だと思いますよ。
紅がそう答えるより先に、「くれぐれも、よろしく頼んだ」と、紺野が席を立った。そのまま、食堂を出て行ってしまう。
一人残された紅は、深呼吸をした。
犬が一匹、行方不明。
こういう話を聞いたのは、初めてのこと。心を落ち着かせたかった。
最初のコメントを投稿しよう!