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――春雪さん。
蕾が花開く瞬間のような彼女の笑顔がたまらなく好きだった。彼女にやさしく名前を呼ばれると、自分がこの世の何か尊いものになれた気がした。
――朝ちゃん。おはよう。
寝ころんだまま、目が覚めて交わす挨拶の時間がいとおしくて。きっと今日も幸せな一日になる。毎朝、そう思っていた。
追憶に浸りながら、男は病院の屋上で落ちてきそうなほど大きな満月を見上げる。
〝おつきさま、たべるー!〟
住まいのベランダから、小さな息子が無邪気に手を伸ばす姿が蘇る。月に近づけるように抱き上げた。
〝司、お月さまはね、見るの。食べるのは団子〟
〝だんご、たべるー!〟
〝明日ね。いっぱい作ろうね〟
彼女が笑う傍らで、娘の千里が飛び跳ねていた。
〝ちーちゃん、てつだう!〟
翌日、ショッピングモールにみんなで出かけ、予定よりも増えた荷物を抱えながらバスを降り、家路を急いでいた。
〝あ。団子の粉買うの忘れちゃった〟
〝じゃあ行ってくるよ〟
声を上げた彼女に春雪が足を止めて申し出る。
〝そこのスーパーで売ってるでしょ〟
〝うん。でも、一度荷物置いてからにしたら〟
〝んー、このまま勢いで行ってくる。帰ったらコーヒー飲んでまったりしたいから〟
〝だね。荷物持とうか?〟
〝ありがと、だいじょぶ。ちーちゃん、つっちー、ママとちゃんと手つないで。先帰ってて〟
〝ちーちゃん、パパといく〟
〝来る? パパ荷物あるから抱っこできないよ?〟
歩道の上の四人に、赤い車が迫ったのはそのときだった。
数百キロの金属の塊が、数十キロの速度で突っ込んできたのだ。妻と子供をかばったところで、脆い人間の体が少しでも盾になれたかどうか。はなはだ心もとない。
一瞬の出来事なのに、不思議と運転席の男と目が合って顔を見た。笑っていた。酒か薬を飲んでいたのか、正常でないのは確信した。車の勢いが止まらなかった。あの運転手のことは永遠に許せる気がしない。
あんなところで、立ち止まらなければよかった。話しこまず、あの場をさっさと離れていればよかった。
朝ちゃん、家出る前に、団子の粉買わないとないって言ってた。自分がちゃんと思い出して、忘れずショッピングモールで買ってきていれば。そもそも、一つ前の角を曲がって、あの道を通らなければ。わずかでも通る時間がずれていたら。帰りのバスが混むからって子供たちを急かさずに。もっとゆっくり遊んでくればよかった。
何もかもが悔やまれる。
何か一つ。ほんの少しでいいから違っていたら。そうしたら。あの悪夢のような事故を避けられて。きっと。
〝おつきさま、たべるー!〟
抱えた荷物をちょっとジャマに思いながら、スーパーで粉を買って、お団子を楽しみに待っている子供たちの元へ駆けつけて。
〝ただいま〟
玄関を開けたら、
〝おかえり!〟
それこそお団子みたいにもちもちの頬いっぱいの笑顔で、飛びついて迎えてくれたのに。
どうか。そっと、上目蓋を下目蓋に合わせ、降り注ぐ月の光に祈りを捧げる。
どうか。叶わぬ自身の分までも。あなたの願いは叶いますように。
「うん、うん。楽しみにしてるね。じゃ」
清香は、久しぶりに訪れた公民館の前で、三和との通話を切った。スマホをジーンズのポケットに入れて、開いたままの入り口から中を覗き込む。
「キヨカちゃんだ!」
「キヨカちゃん!」
姿を見つけた子供たちが駆け寄ってきてくれた。小さな手を伸ばして、口々に出迎えてくれる。
「おかえり!」
袖にまとわりつき、手を取ってくれる一人一人に清香の笑顔がこぼれた。
「ただいま」
入り口脇の植込みには、黄色い蝶たちが集まって、ひらひら羽をはためかせていた。清香と子供たちに、祝福の紙吹雪を振りまくように。
終
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