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6章(4)
カイリエンがやっと馬を止めた時には、東の空が白みかけていた。もうすぐ夜が明けようとしている。カイリエンは山の麓にあった厩舎に馬を預けると、メルフェリーゼの手を取って山道を登りはじめた。
どこへ向かっているのか、メルフェリーゼには検討もつかない。馬で走ってきた距離を考えるに、まだユルハ王国は出ていないはずだがツリシャ王国との国境にほど近い場所まで来ているのではないかと思った。
あと三日。あと三日で、アウストルはいわれのない罪で処刑されてしまう。一番近くにいたメルフェリーゼには分かる。アウストルは王位など望んでいないし、マーリンドを殺す理由もない。ここ最近はずっとメルフェリーゼと一緒にいたのだ。それこそ、片時も離れずに。そんなアウストルに、マーリンドを殺す時間があったとは思えない。
メルフェリーゼはカイリエンの手にすがって山道を登りながら、アウストルのことを考えた。少し出かけてくるといって屋敷を出て行ったアウストル。彼はどこに、なにをしに行ったのだろう。夜には戻ると言いながら、彼はついぞ帰っては来なかった。
「疲れただろう」
メルフェリーゼの手を力強く握りながら、カイリエンが尋ねる。メルフェリーゼは疲労を押し隠し、ゆるゆると首を振った。
「大丈夫、まだ歩けるわ」
それよりも、とメルフェリーゼは前を行くカイリエンの背中を見る。
「カイはどうやってアウストル様が捕らえられたと知ったの? それに、私のいた屋敷の場所も」
「軍部を出たところで、知らない男たちに襲われたんだ」
カイリエンはなんてことのないように言っているが、頬の傷や血を吸った外套が事態の深刻さを物語っている。いくら王国軍で鍛えられた兵士だとしても、数人を相手にするのは一筋縄では行かなかっただろう。
「一人だけ生かしておいて問い詰めたら、全部吐いた。自分たちがマーリンドに雇われた傭兵だってことも、マーリンドがアウストル王子を排除しようとして、最初の毒殺計画に関わった人間をすべて消そうとしてることもな」
「どういうこと? アウストル様を殺そうとしたのは、カイと私だけの間の話じゃなかったの?」
「療養の名目で離れに閉じ込められていた俺が、毒物を調達できたと思うか?」
「あ……」
メルフェリーゼはあの小瓶がどこからやってきたのかなど、考えたこともなかった。たしかにカイリエンが離れを出られない以上、彼に協力して毒を渡した人間が確実に存在する。
「まさか……」
メルフェリーゼは息を飲んだ。薄闇の中でカイリエンがうなずいたのが見える。
「ああ、すべてのはじまりはマーリンドだ。あいつが俺に、アウストル王子を殺したらメルと一緒に城を出て暮らせるように手配すると持ちかけてきた。あの毒が入った小瓶も、あいつが調達してきたものだ」
すべては、マーリンドの手のひらの上だった。メルフェリーゼは彼の意のままに踊らされていただけ。自分の力で手に入れたと思っていた自由も、結局はマーリンドが報酬として用意しただけに過ぎないものだった。
だからこそアウストルは、自分が毒殺されようとしていることを予見して、役者まで用意してメルフェリーゼに目的を達成したと思わせたのだろうか。あの大芝居はメルフェリーゼを騙すだけでなく、マーリンドの目も欺くためだったのだろうか。
「私の、せいだわ……」
メルフェリーゼはよたよたとカイリエンの後を歩きながら、呟いた。自分が第二王子の妻という立場から解放されたいなどと願ったから。カイリエンとともに生きたいと思ってしまったから。自分の心の弱さが、マーリンドに付け入る隙を与えてしまった。アウストルを危険に晒してしまった。
「メルのせいじゃない」
カイリエンの険しい声に、はっと顔を上げる。うっすらと昇りはじめた朝日が、木々の間からカイリエンの顔を照らしていた。
「もとはといえば俺がマーリンドの話に乗ったからだ」
でも、とメルフェリーゼはカイリエンの手を握りしめる。
「カイが嬉々としてそんなことに加担するような人には、思えないわ。いくら私と一緒に城を出られると言われたって――」
「もう終わった話だ」
カイリエンは短くメルフェリーゼに言うと、歩調を緩めた。いつの間にか周りの木々が遠のき、開けた場所に出ている。
二人を出迎えたのは、朝日を浴びてぼんやりと浮かび上がる古ぼけた館だった。レンガ造りの館はところどころに傷みが見え、緑の蔦が絡んではいるが、十分住めそうである。
メルフェリーゼはかなり山道を登ってきたと思ったが、まだ山の中腹にすら達していない。麓の厩舎からも、それほど離れているわけではなかった。
カイリエンはメルフェリーゼの手を引いたまま、ずんずんと館に近づいた。近づくほどに館の威圧感が増す。夜になれば幽霊が出そうな雰囲気である。
カイリエンは重厚な扉の前に立つと、何度か扉を打ち鳴らした。しばらくしてから細く扉が開き、無理に隙間を押し広げるようにして巨躯がはみ出してくる。カイリエンよりさらに頭二つ分ほど高い位置に、男の顔はあった。短く刈り上げられた黒髪に、ほとんど開いているか分からない黄金のような色をした目。
メルフェリーゼはその顔を見て、ぎょっとした。彼はまさしく、メルフェリーゼがアウストルを毒殺しようと寝室に忍び込んだ時に見た男だった。予想通り、あの時と同じ低い声が「入れ」と二人に指示して扉を開け放つ。
「待ってたよ、メル」
歌うような軽やかな声で、小柄な少年がメルフェリーゼを出迎える。少し癖のある黒髪に、硝子玉のように丸い黄金の瞳。扉を開けた大男が、少年の隣に立つ。
フィルムを巻き戻すように、メルフェリーゼの記憶が過去へとさかのぼる。
間違いない、見間違えるはずがない。あの夜、少年の口から聞いた「ミライ」という名前。
メルフェリーゼはカイリエンの手を解くと、二人に駆け寄った。二人の顔にはたしかに面影が残っている。
「ミハイ」
名前を呼ばれた少年がにんまりと笑みを浮かべる。
「ミライ」
大男がメルフェリーゼに向かって肩をすくめる。
メルフェリーゼは二人を巻き込むようにして抱きしめた。ミハイの身体は棒のように細く、ミライの身体は石のように固い。二人の手が、そっとメルフェリーゼの背中に添えられる。
「無事でよかった……!」
その二人は紛れもなく、ある日突然、貧民窟から姿を消した双子だった。
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