6章(3)

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6章(3)

 その日は珍しく、アウストルが朝から屋敷を出ていた。外で済ませなければならない用があると言っていたが、詳しくはメルフェリーゼも聞いていない。アウストルは夜までには帰ると言って、大量の焼き菓子や本を置いて屋敷を出て行った。  屋敷に来てからアウストルとこれほど長い時間離れて過ごすのははじめてのことで落ち着かない。本を読んでも頭に入らず、メルフェリーゼはわけもなく屋敷中を歩き回った。  アウストルの母が住んでいたという屋敷は調度品の数も控えめで、王族が住む屋敷というよりは少し裕福な商人や職人が住む屋敷のような雰囲気がある。  メルフェリーゼはこの屋敷も、ハーブと花々に囲まれた庭も、屋敷のそばにある大きな湖も気に入っていた。まるでメルフェリーゼのために作られたように、すべてがしっくりとくるのだ。ユルハ城よりもよほど心地がよく、メルフェリーゼはずっとここでアウストルと暮らしていきたいと思っていた。  夜になって辺りが暗闇に飲まれても、アウストルは帰って来なかった。外へ出るのは恐ろしくて、メルフェリーゼは玄関に近い窓のそばに椅子を置き、馬車の車輪の音や馬の嘶きが聞こえないものか、じっと耳をすませていた。膝の上に置いた本はいつまでも同じページを開いたままで、少しも進まない。  メルフェリーゼの耳が、かすかな足音を捉えた。アウストルの静かな歩き方ではない。ドカドカと地面を踏みしめるような歩き方で、音の間隔が狭いことから走っている様子が窺える。  メルフェリーゼが席を立つより早く、玄関の扉が激しく打ち鳴らされた。叩く音と同時に、取っ手がガチャガチャと揺さぶられる音も重なる。  相手は相当焦っているようだ。音はひっきりなしに響き、メルフェリーゼの心を乱す。  メルフェリーゼは本を脇に置くと、そっと立ち上がった。玄関そばのテーブルに置かれた園芸用のハサミを逆手に握り、ドンと扉を叩き返す。一瞬の間の後、扉を叩く音が止む。 「どなた?」  メルフェリーゼは震えが伝わらないよう、精いっぱい声を張り上げた。話の伝わる相手でありますようにと願って、返答に耳をすませる。 「俺だ、メル。カイリエンだ」  くぐもった声が返ってくる。耳なじみのよい、懐かしい低音。その声に穏やかさはなく、切迫した様子が伝わってくる。  蜂蜜色の瞳を思い出し、メルフェリーゼはハサミを投げ出して扉を開け放った。  室内の明かりに照らされて、頬に切り傷を作ったカイリエンの顔が浮かび上がる。傷はそれほど深くないようだが、さっと視線を走らせると彼の外套や手は血に濡れ、頬以外にも怪我をしているところがあるのかもしれないと思わせるような有様だった。 「どうしたの、カイ! まずは手当てをしないと――」 「そんな時間はないんだ。早く、ここから逃げないと」 「どういうこと?」  メルフェリーゼの疑問には答えず、カイリエンは自身が着ていた外套を脱いでメルフェリーゼに着せた。外套から、むわっと汗と血の臭いが漂ってくる。  戸惑うメルフェリーゼの腕を強く引く。メルフェリーゼは半ばカイリエンに引きずられるようにして外へ出た。  湖に月の明かりが反射している。月明かりでぼんやりと光る湖の湖面に、人が数人浮いているのを見たメルフェリーゼは引きつった悲鳴を上げかけた。その口を咄嗟にカイリエンの血で滑る手が塞ぐ。 「あれはメルの命を狙っていた奴だ」 「あ、あなたが、やったの……?」  カイリエンの手の中でメルフェリーゼが切れ切れに呟く。カイリエンはメルフェリーゼの口から手を離すと血で汚れた彼女の顔をシャツの袖で拭った。 「詳しいことは後で話す。とにかく、今はここを離れないと」  言うが早いか、カイリエンは軽々とメルフェリーゼを抱き上げ、街灯の明かりも届かない闇を疾走した。人を抱えているとは思えないスピードに、メルフェリーゼは舌を噛まないようにぎゅっと口を引き結ぶ。  屋敷から離れた木々の間に、馬が繋がれていた。カイリエンはメルフェリーゼを馬の背に乗せると、自分も彼女の後ろに乗って手綱を握り、馬の腹を蹴る。  血を吸い込んだ外套はずっしりと重く、背中にはカイリエンの熱い体温が伝わってくる。メルフェリーゼを抱きかかえるようにして手綱を握ったカイリエンは一言も発さずに、馬を走らせ続けた。  馬は人目につかない山道のような場所ばかりを選んで通っているらしかった。なぜ人目を避けなければならないのか。なぜ、メルフェリーゼは逃げなければならないのか。アウストルは今頃どうしているのか。屋敷にメルフェリーゼがいないと分かったら、アウストルは夜中でも彼女を捜し回るだろう。聞きたいことだらけなのに、道が悪いせいで口を開く余裕がない。 馬の歩みが鈍くなった頃、ようやくカイリエンは口を開いた。 「アウストル王子が、マーリンド派に捕らえられた」  メルフェリーゼの顔から血の気がさっと引く。アウストルは自らの死を偽ることで、王族という立場から退き、王位継承の争いから身を引けたものと思っていた。アウストル自身も、メルフェリーゼに向かって「今では王子でもなんでもない」と言っていたのだ。  次の国王になることが確定しているマーリンドがなぜ、今になってアウストルを捕らえたのだろうか。  むせ返るような血の臭いに包まれながら、メルフェリーゼはカイリエンの言葉に耳を傾ける。 「メルがアウストル王子を殺し損ねたことを、マーリンドはどこかから掴んだらしい。アウストル王子に王位継承の意思はないというのに、彼は確実に第二王子を屠らないと気が済まないようだ」  自分の弟なのにな、とカイリエンは付け足した。  メルフェリーゼはカイリエンに体重を預け、めまいをこらえるようにぎゅっと目をつむる。もう、なにも聞きたくない。なにも知りたくない。でも、知らなければならない。ようやく、アウストルと本当の夫婦になりはじめたところなのだ。 「アウストル様は、無事なの?」  脳裏に翡翠色の瞳が浮かぶ。寝起きの、癖のある黒髪が浮かぶ。笑おうとして上手くいかなかったような、恥ずかしそうにはにかんだ顔が浮かぶ。どれもこれも全部、屋敷に来てから見たアウストルの姿だ。すれ違った二年間を、取り戻しかけていたのに。  カイリエンは後ろをちらりと振り返ると、馬の腹に爪先を入れた。ぐん、とスピードが増して周りの闇が勢いよく流れていく。  カイリエンは前を見たまま、メルフェリーゼの耳元に顔を寄せる。一番、聞きたくなかった言葉を吐く。 「マーリンドの暗殺を企図した罪で、三日後に城下広場で処刑される触書が出ている」
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