3 オオシマザクラ(卯月未依)

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3 オオシマザクラ(卯月未依)

 始めてデザインに興味を持ったのは高校の学園祭でやった『リゾートを演出したカフェ』だった。カフェの空間全体と、配置する小物や衣装、教室でかけるBGMやメニューなんかにもトータルでこだわって、クラスのみんなと一丸になって作り上げた。学園祭であることを忘れてずっと続けて行きたいと思えるほど出来がよくて先生たちにも褒められた。  高校を卒業したあとは、両親の反対をおして地元の専門学校で学び、東京のデザイン事務所の採用通知を勝ち得た。それが二年前のことだ。今は朔良と共に上京しデザイナーの卵として働いている。  山梨の田舎にある学校に貼られる人材募集の掲示は、静岡や浜松あたりの小さな広告代理店や印刷会社によるものが多くて、東京や横浜の大手事務所ばかりを候補に挙げていたあたしは周りから冷めた目で見られていた。表向きは、すごい、未依(まい)なら絶対やれるよと応援してくれてはいたけど、どことなく他人事で、現実感のない夢を褒められているようで、バカにされているとまでは言えなかったけれど声援は揶揄にしか聞こえなかった。  でもあたしには絶対に叶えなくちゃならない夢があったからこそ頑張れた。友達の反応になにくそっとムキになっていたわけじゃない。面接のための交通費だってバカにならなかったけどバイトだって頑張れた。すべて朔良のおかげだ。  朔良とは小学校から高校までずっと寄り添うように過ごした。隣の家に住む老夫婦の元に突然やって来た頃の当時の彼は拗ねた表情でいつもびくびくとして、人間に怯える野良猫みたいに近づくだけで慌てて逃げ出すような子供だった。  当時、近所では様々な噂が飛び交った。まだ幼かったあたしにはよくわからなかったけれど、たしか彼のお父さんが奥さんを殺して警察に捕まったとかなんとか。  とにかく田舎では、些細な憶測に尾ひれがつきありえない話になる。だからあたしは噂話なんて信じないことにしている。つまらない世間話から生まれる先入観は、真実を歪めてしまうことだってあるから。  中学の頃に音楽に目覚めた朔良は友達同士でバンドを組んだ。それはガチャガチャとうるさい音楽であたしの趣味じゃなかったけれど、彼が何かに一心に打ち込んでいる姿があたしはとても好きだった。  家も隣同士で、いつも一緒にいたあたしたちはまるで兄妹のように育ち、やがていつの間にかその関係は自然に恋人へと発展していった。  どこまで買いに行っていたのかはよくわからないけど、学校の休みとあたしと会えない日が重なると、朔良は自転車で遠出をして服をいっぱい買いこんでいた。ヴィンテージ物のスカジャンや、デッドストックのミリタリーシューズにチューリップハット。それらは、いまでこそ名称がわかる小物たちだけれど、当時は見たこともない派手で突出した個性のものばかりで周囲からは浮きまくっていた。  何度か一緒について行きたいと頼んでみたことがあるけれど、いつもあたしにべったりだったくせにそれだけはガンとして首を縦に振らず、未依にはああいう店は似合わないからつれていきたくないと言った。喧嘩して唇や目の端を切って帰ってくることも多かった。  朔良はときどき秘密主義になる。でも大概において彼が内緒で出かけるときはあたしを喜ばせるためだったから、そういうときは黙って行かせた。鎮痛剤を買い込んで帰って来た時は手首にあたしの名前が墨で彫られていた。夜遅くに神代桜に呼び出されてまだ血が滲んでラップが貼り付けられた腕を見せられたあたしは、喜びで胸が張り裂けそうになって涙で桜が見えなくなった。  買ってきてくれるお土産の服やカバンはシンプルで清楚なものばかりで、彼の隣に立つとその差が激しく、あたしは友達から『よくあんなのと付き合えるわね』なんて言われてたけれど、みんなは本当の彼を知らない。朔良は人間に怯えるただの寂しがり屋の小猫ちゃんだってことを。  そんな朔良だからこそ、あたしの就職と上京が決まると、誘ってもいないのにさっそく身支度を始め、親しい友人に別れの挨拶と餞別を渡し歩いていたのがとてもかわいらしかった。  入社して一年はとにかく仕事を覚え、先輩たちについていくのがやっとだった。  気がつくとあっという間に時間は過ぎて、二年目になると細かな雑用やちょっとしたデザインなどを任せてもらえるようになっていた。忙しくもやり甲斐ある仕事に没頭し、自分の誕生日すら忘れていた。  木曜日に仕事から帰ると、ソワソワとした彼があたしを待っていた。何か言いたげなそぶりで近づいてくると、薄い緑の包装紙で綺麗に包まれた小さな箱を差し出す。  和紙でできた包装紙の左上には月桂樹の葉で輪を形作られたシールが張ってあり、輪の真ん中の空白には黒のかすんだスタンプで『LoOp』と印字されていた。  包装紙を開けると、ブラウンの厚紙で作られた、アンティークな雰囲気の正方形の箱が出てくる。  その箱はジュエリーボックスになっていた。蓋をゆっくり上に押し上げると箱が開き、黒のベロアのクッションの中心にシルバーのリングが置かれている。  メビウスの輪をモチーフに作られたシンプルなデザインで、とてもセンスが良かった。そう言えば今日はあたしの誕生日だった。 「どうしたの!? すごくセンスの良いリング! ありがとう、高かったでしょう?」 「まぁな、バイト代がほぼ飛んでったよ。でもおまえの喜ぶ顔が見たかったからさ」  そう彼が言ったとき、あたしは嬉しさ半分で少し寂しい気持ちになっていた。  上京して二年、彼は定職に就くこともなくアルバイトを転々としていた。稼いだバイト代は自分の服やらレコード、果てはギャンブルなどにすべて使い込んだ。  当然収入を家に入れることもなく、家賃も食費も光熱費もすべてあたしの財布から出ている。  せっかく買ってきてくれたんだ。あたしは彼の気持ちを損なわないように気を配りながら、「本当にありがとう、大事にするね」と答えた。  上手く隠したあたしの気持ちに気づいていない朔良は、嬉しそうにリングを買ったお店の話を始めた。  彼の話す雑貨屋『LoOp』の評価は酷かったが、彼は自分もいつか、ライブハウスを兼ねた喫茶店かBARをやってみたいと言い出したのだ。  もしかしたら、またあの頃みたいに何かに打ち込む彼の姿が見れるかも! しかも、それが仕事となり生活の基盤となるのなら、これほど嬉しいことなんてない!  あたしは彼が思い描いた夢に大賛成をした。  朔良がその夢を実現するなら、あたしもそれまでに独立して、彼のライブハウスの二階にでもデザイン事務所を構えれば、ずっと二人三脚で理想の生活を送っていける!   あたしは彼の夢の裾野を、限りなく広げるようにして自分の想いを重ねた。  朔良の夢の実現が、あたし自身の夢の実現になる。今は妄想めいていたって構わない。実現させてみせる。考えはどんどん広がっていく。  あたしの心は抑えがきかないほど膨れ上がり、居ても立っても居られない気分になって、さっそく今度の日曜日に雑貨屋を見に行ってみようと心に決めていた。  勤め先の職場は日曜日が休みだった。  それほど大きくはないデザイン会社だったが、取引先は個人事務所や出版関係など多岐に渡っていて、土曜日は打ち合わせに出勤となることも多く、決まった休みは日曜だけだった。  代わりに、平日にランダムな休みが月二回割り当てられていたが、取らないままに流れてしまうこともよくある。  仕事の疲れで休みの日に目を覚ますのは、だいたい昼頃。その日も目を覚ますと、朔良は既にバイトに出かけた後で、部屋にはあたし一人だけだった。  支度したあたしは、リングに同梱されていた店のカードを持って雑貨屋を目指す。  裏に印刷された地図を見ながら路地裏を行く。 『LoOp』のロゴといい、裏の地図といい、とてもセンスがいい。リングの包装と同じく、やはりこれにも和紙が使われている。  グランジ表現にも色々あるけど、柔らかい木炭でかすれさせたようなこの全体の雰囲気の良さは、デザイナーの感性にかかっている。  デザイン会社に勤めてわかったことだが、技術でできるデザインは多くても、結局最後はこういう感覚的なさじ加減が決め手になるってことをあたしはよく知っていた。  DTPは特に難しい。パソコンの画面の中でどんなにそのデザインが素敵に映っていても、出力先素材としてグロス系を使うか、ダルマット紙を使うかだけで雰囲気は嘘みたいに変わってくる。幾度となくそれで失敗した。  一体どんなお店だろう、どこのデザイン会社がこれを作ったんだろうか。それにしてももう二年も住んでいるのに、こんな所に店があったなんて知らなかった。  あたしはその見ぬデザイナーに半ば渇望にも似た羨望を感じながら路をたどった。  自宅から二十分ほど歩く距離にひっそりと佇む雑貨屋『LoOp』は、主張こそしないものの、そのこだわって設計されたであろう店構えが存在感を際立たせていた。  無機質なコンクリートで仕上げられた建物に無垢材の板が打ちつけられ、コンクリートと木のストライプ柄を浮かび上がらせている。  建物の脇には屋根に届きそうな大きな木が植えられ、さらにその脇を背の引い常緑樹で固めて、緑の外壁のような演出がなされていた。店の前にはイーゼルに立て掛けられた黒板に、緑のペンキで直接描かれた『Welcome!』の文字。  一番大きな木には、花弁のたくさんある大輪の八重咲きの黄色い花がついていた。もう散りかけているが、イーゼルの周りにそれが自然に散って色合いをときめかせている。  店内もまた見事だった。コンクリートの無骨な壁に薄い緑のペンキを塗り、正方形に模られた薄い木の板を壁一面に散らばるように貼りつけてある。さわやかな森の中に、枯葉がかわいらしく舞っているようだ。  天井からはシーリングファンが吊り下げられゆっくり大きく回っていた。天井に近い壁面には大きな窓があり、照明に頼らずとも自然の光が店内を照らしている。ディスプレイ棚もアンティーク風に手作りされ、かすれた白いペンキが良い雰囲気を醸し出していた。  店内奥のレジ横には深い焦げ茶色の木製カウンター、どうやらここが喫茶スペースのようだ。至るところに観葉植物が置かれている。  店全体の雰囲気は落ち着いたイメージだが、シンプルと表現するには空間と商品の演出が計算され尽くされており、そのセンスの良さを既存の言葉で表現するのはあまりにも難しい。  店内に流れるボサノヴァのBGMもさらに居心地を良くさせる。  確かにこれじゃ朔良の趣味じゃないな、そう思いながら奥を目指すと、茶色いカウンター越しに、男性スタッフが「いらっしゃいませ」と挨拶をしてくれた。 「珈琲をお願いします。素敵なお店ですね」  あたしが腰掛けると、そのスタッフは嬉しそうにお礼を言って、手際よく珈琲を淹れながら、優しい笑顔を向ける。 「来られるのは初めてですか?」 「彼が三日ほど前にここで指輪を買ってくれたんです。今日はその指輪のサイズ直しをお願いできないかと思って」  あたしが指輪を差し出すと、スタッフは思い出したような表情をした。 「ああ! あのときの」 「覚えてるんですか?」 「店のアクセサリーはすべて僕の手作りなんです。特にこの指輪は自信作だったので」  スタッフだと思っていた人物は、店のオーナーだった。さほど歳も離れていなさそうな彼の風貌に内心驚く。 「ただと優しい笑顔を向ける。ごめんなさい、シルバー加工用のバーナーのヘッドが壊れてしまって、サイズ直しに時間が掛かってしまうんですが、よろしいですか?」  あたしが承諾すると彼は名刺を出し、サイズが直り次第、この名刺の番号から電話をすると言ってくれた。  名刺には波柴明周とあった。  紙は店のカードとは違う素材で、すっきりとさわやかな緑を基調にしてある。  オーナーの名前は主張しすぎることなく『LoOp』という文字の周りにさりげなく添えられた控えめなデザインで、これもまた素敵だ。  あたしはなんだか会社の名刺を出すのに気が引けて、自分の電話番号と名前をそこにあった紙ナプキンに直接手書きして渡した。 「デザインがほんとに全部素敵なんですね。私、一応デザイン関係の仕事していて」 「ええ? それはすごいな! 僕は頼むお金もなくって全部自分でやったんですよ。恥ずかしい限りです。プロから見たら相当に粗が目立つでしょうね」 「そんなっ、ますますすごいです。どこのデザイナーが請け負ったんだろうって思ってました……。あの、お店の名前の由来はなんですか?」  あたしが店の名前の由来を訊ねると、彼は照れ臭そうに笑いながら答えた。 「この店に来てくれたお客さんがお店を気に入って、いつまでも足を運んでくれるようにとの想いを込めて付けたんです」  はにかんだ目じりに皺が寄って、凛とした視線が空間に和む。 「この『LoOp』のOが大きくなってるのはどうしてですか?」 「ああ、ループって繰り返すって意味ですけど、その中でもこう、ちょっとずつ広がっていってほしいなとも思いまして。ほら、波紋が広がるみたいにね」 「すごく素敵ですね」  朔良とそれほど歳も変わらなさそうなこのオーナーには、やりたいビジョンがはっきりと見えている。その差をすごく大きく感じてあたしは羨ましくなった。 「私の彼がいつかライブハウスを兼ねた喫茶店のようなお店を開きたいっていうんですが、やはりお店を構えるのって大変ですか?」 「そうですね、でも好きだからこそやれる仕事でもありますよ。無料でやってる起業セミナーなんかに出て、明確なビジョンと自信さえつかめれば後は行動するだけです」  起業セミナー! あたしはとても良い情報を得た気がして、一刻も早く帰って調べたくなった。  オーナーにお礼を言うと足早に店を出る。いつの間にか辺りは真っ暗、随分と話し込んでしまった。  浮かれて焦る足取りを抑えながら帰宅すると、朔良はいつものようにビールを片手にテレビを見ている。 「おかえり、休みの日に出かけるなんて珍しいな?」 「うん、ちょっとね」  あたしはパソコンを開くと、無料で開催されているセミナー情報を調べた。  朔良は確か、今度の火曜日が休みのはず。その日に実施される起業セミナーを突き止めると、さっそく朔良に伝えた。 「そっか、行ってみるよ」 「ほんとに!?」  思わず朔良に抱きついた。  加速度的にあたしたちの夢が実現に向けて進み始める。 「後にしろよ」  と朔良は面倒くさがったけれど、あたしはとても嬉しかった。  翌日も仕事帰りに『LoOp』に立ち寄ると、昨日と同じにオーナーは優しい笑顔で迎えてくれた。  カウンターに着くとフルーツパンケーキとスムージーを注文し、明日さっそく無料で行われるセミナーに彼が参加することになったと伝える。 「これは、近々強力なライバルが誕生するかもしれないですね。僕、自分の首を絞めるようなことしちゃったかな」  冗談めかして笑うオーナーと店の内装のことなどを話し込んで店を出ると外はもう暗い。  朔良が待っている、そう思ってすぐに電話したけれど彼は出なかった。  そのまま自宅に向かっていると近くの道路で夜間工事をしている。通行止めだ。家はすぐそこなのに。通らせてもらおうとお願いしてみたけれど「申し訳ありませんね。狭い通路なのであっちから回ってください」と追い払われる。  途端に明るかった気持ちが沈んでいく。夢が近づいたと思ったら、遠退くような気分がよぎり暗い気分になった。  仕方なく回り道をしていると朔良から電話がかかってきた。  気持ちを取り直して元気な声で応えると、まだ外にいるらしい彼から予想外の言葉が返ってくる。 「ああ、未依、今日は夜間バイトになるから帰れないんだ」  明日はセミナーなのに……泣きたくなる気持ちを飲み込んで、元気に言った。 「少しは眠れるといいね。おやすみ朔良!」  電話はすぐに切れた。  自宅に帰り着くとビール片手のいつもの彼はいない。  一人で過ごすのなんて本当に久しぶりだ。不思議と新鮮な気持ちになる。  早めに布団に入るけど、なんだか落ち着かなくて寝つけない。あたしは起き上がると、パソコンで朔良のバイト先からの電車の経路を検索した。  セミナーの開始は十一時だから、もしかしたら少し眠れるかもしれない。  ぎりぎりまで寝かせてあげたい、そんな気持ちで間に合う電車の時間を調べると、メールでまとめて朔良に送った。  しばらく待っていたけど返事はなかった。  暗闇の中で「おやすみ」ってもう一通送ってから目を瞑る。  翌朝目覚めて確認すると返信はまだなかった。あたしは不安になる気持ちのまま、職場へと急いだ……。 「卯月(うづき)さん、新規のオフィス内装案件があるんだけど、その企画のプレゼンを明日手伝ってくれない?」  昼食を終え、午後からの仕事に取り掛かろうとしていると、先輩がやって来た。 「え? 本当ですか!」  プレゼンを手伝わせる、これはうちの事務所では新米が独り立ちに向かうときの伝統になっていた。  後輩にプレゼンの協力を求めるというのは、つまり実力を認めてもらえたということだ。 「あ、ありがとうございます! 私……頑張ります!」  返事をしながら、心の中で「よしっ!」と大きくガッツポーズを取る。  誕生日にリングを貰い、その縁で『LoOp』を知り、朔良が夢を持ち始める。  職場では先輩から認められ、人生の歯車が急に噛み合って、順調に回り始めた気分だ。  そうだ! あのリング、ペアにできないかな? きっと朔良も喜んでくれるはず!  雑貨屋『LoOp』はあたしの心のオアシスになりつつある。  この店のお洒落な空間と雑貨たちに囲まれながら時間を過ごしていると自然と疲れも吹き飛んだ。 「お揃いのリングを作ってもらえませんか」  それを聞いたオーナーは、驚いて笑みを浮かべた。 「実は作ってあるんですよ……といってもまだ仕上げの磨きが残っているんですが、女性用のリングは完成した日に売れたので、どうしようかと悩んでいたんです」  オーナーは完成間際の男性用のリングをカウンターの下から取りだして見せてくれる。男性用のリングは女性用よりも少し肉厚で、こちらもとても素敵だった。 「明日までには完成するんですが、未依さんの方のサイズ直しの道具がまだ届いてないので、明後日には揃って渡せると思います」  あたしはそれで了承し、彼に早く伝えたい気持ちを抑えながら足取り軽く帰宅した。  玄関を開けると、部屋にはビール片手にテレビ鑑賞するいつもの朔良がそこにいた。 「セミナーどうだった⁉」  声が少し上擦っているのが自分でもわかる。 「おう! なんとなくだけど、なんていうか未来のビジョンが見えた気がしたよ!」  オーナーの言ってた通りだ!  朔良のやる気にあたしの気分も盛り上がり、つい興奮して夢の具体的な話をしようとすると、彼は話をはぐらかした。  きっと慣れないセミナーに行ったから疲れたんだろう。今は仕方ない、休ませてあげなきゃ。  あたしは興奮する気持ちを抑えてシャワーを浴びにいった。  浴室から出てくると朔良はもう寝てしまっている。髪を乾かして、隣へそっと入ったけれど高ぶる気持ちでなかなか寝つけなかった。  翌朝目覚ましが何度もスヌーズしてようやく目を覚ます。なんとか体を起こすものの依然頭の中は眠ったままだ。 「なぁ未依、リングどうしたんだ?」 「え? ちゃんと持ってるよ」  出掛け間際、突然朔良がリングのことを訊いてきた。あたしが着けてないのを気にしてるんだろう。  早くサイズ直しして、お揃いで身に着けたい。朔良がせっかく選んでくれたプレゼントなんだから。  虚ろな頭の中でそう考えていたら、あたしは企画プレゼンのことを思い出した。 「あぁ! 今日はプレゼンの日だ!」  一瞬で頭が冴えたあたしは、大急ぎで職場へと向かった。  幸運にも、その日の会議は午後からで準備をする時間は充分あった。けどもしこれが午前中だったらと思うとぞっとした。資料をまとめ、先輩との事前打ち合わせもしっかりできたおかげで、いざ本番では二人とも充分な手応えを感じていた。  どうやら企画は通りそうだ。  仕事を終えると、いつものようにオアシスへ向かう。店内に響くボサノヴァがあたしの心を癒し、軽食と珈琲が空腹を満たす。 「彼氏さんの方はどう?」 「おかげ様で、セミナーに行ってから、何かを感じたみたいです」 「それは良かったね! ところで相談なんだけど、お店の経験も兼ねて、彼氏さんの空いてる時間だけでもいいから、うちでバイトしてくれないかな?」  突然の申し出にあたしは喜び驚いた。 「でも、一体どうして?」 「良い経験になると思って。僕もこの店を始める前は先輩のお店を手伝って、色々と学ばせてもらったから」 「波柴さん……ありがとうございます」 「はは、大袈裟だな。それより明周でいいよ」  あたしたちの夢の実現のために協力しようとしてくれるオーナーの優しさが本当に嬉しかった。少し涙目になりながらお礼を言うと、何かしなくちゃ気が済まない気分になり閉店の手伝いをした。  帰りの夜道をオーナーと話しながら歩く。店を少し進んだところでオーナーと別れ、あたしは自宅へと向かった。  気持ちが高ぶって家に着くのが待ちきれない。一刻も早く話をしたくて、歩きながら朔良に電話をした。  電話越しの彼はとても疲れた声をしていた。聞けばバイトの応援を頼まれたらしく、今日は帰れないとのことだった。 「そっか……」  とても疲れてるんだろう。リングのためにお金をたくさんつかってしまったと言っていたし、最近休みなく頑張ってるのも、もしかしたらこの先のことを少しずつだけど考えてくれてのことなのかも。  それにしてもしんどそうな声だ。きっと今は話すべきじゃないんだろうな、そう感じたあたしは、この朗報は後の楽しみにとって置こうと思い電話を切った。  自宅に帰り着くとビール片手の彼はいない。今日はたくさんたくさん話したかったのに。  この腕の中にしっかりあるはずの抱きしめるものが、頼りなくすかすかとしていきそうな寂しさを覚えながらあたしは眠った。  翌日の木曜はいつもと違っていた。彼がいないのもそうだが、仕事帰りに『LoOp』へ行くと店が閉まっていたのだ。  オーナーは休みのことなんて言ってなかったのに、定休日だろうか? でも彼がリングを買って来てくれたのは先週の木曜だったはず。理由はわからなかったが、お店が開いてないものは仕方ないと思い、その日はそのまま帰宅した。  今日こそ『LoOp』でのバイトの件を彼に話さなくちゃ! 足取り軽く帰宅すると、そこに朔良の姿はまたなかった。電話をかけてみると、どうやらまたバイトに引っ張られているようで帰れないと言われた。  あたしはなんだか急に黒い雲に覆われた気分になる。上手く噛み合っていた歯車がまた噛み合わなくなってきた、そんな気分だった。  そんな不安な気持ちを払拭してくれたのは翌日、仕事帰りに立ち寄った『LoOp』の明かりを見たときだった。ホッとして店内に入ると、その安堵はまたも一転した。  カウンターにはオーナーの姿はなく、ワイシャツ姿で髪を綺麗に整えた、見た限りとても雑貨屋のスタッフとは思えない男性が立っていた。  オーナーのことを訊ねると、とんでもない答えが返ってきたのだ。 「実は昨夜暴行を受けて入院しているんです」  昨日、あたしは閉店の手伝いをしてオーナーと一緒に店を出た。あの後一体彼に何があったというのか。  呆然と立ち尽くしていると、男性は店を閉めた後、オーナーが入院する病院へ行くというので、一緒に連れて行ってもらうようにお願いした。  心配するあたしのために気を使ってくれたのか、男性はいつもよりもずっと早くに店を閉め、病院へと案内してくれる。 「オーナーの波柴さんとは、ご親戚か何かですか?」 「いえ、倒れているところを私が見つけたんです。心配で、見舞いに行って話していたら成り行きで店を手伝うことになって。不思議な縁もあるものです」  男性は優しげなゆったりとした声でそう話した。  見た目や年齢はだいぶ違ったのでお兄さんとは思えなかったが、声の感じが似ている気がしたので、遠縁なのかと思ったが違うらしい。見知らぬ人を助けるなんて親切な人だ。  病室に入ると、そこには痛々しいほど見違えてしまったオーナーが横たわっていた。あたしの顔を見るなり体を起こそうとする。 「そのままでいてください。大丈夫ですか?」 「ごめんなさい、心配かけてしまって」あたしを気遣ってオーナーが笑いかける。 「別れた後、一体何があったんですか?」 「君に会うまでに何人もの人に同じ質問をされたけれど、答えられなかったよ」とオーナーはまた笑う。その笑顔を見て、あたしは少しだけ安心することができた。  病室まで案内してくれた男性が報告を済ませると、オーナーは彼にあたしのリングのサイズ直しを頼んでくれた。  男性が「かまわないよ」と言って、部屋から出て行くとオーナーはほっとしたようにあたしを見る。  男性がリングのサイズ直しができるのにあたしは驚いていたが、オーナーの話では、彼もどうやら若い頃にシルバーの彫金をやっていたらしい。人は本当に見掛けに寄らないものだ。 「波柴さんにとても声のトーンが似た人ですね」 「そうかな? でも僕も川瀬さんとは、なんだか他人とは思えない何かを感じるよ。実際こうやって店も手伝ってもらっているし」  オーナーは思い出したように、朔良のバイトの話を始めた。 「未依さん、ごめんね、彼氏さんには僕が退院するまで待っていてもらえるかな」 「大丈夫です。私もまだ彼に会えていなくて、バイトの話ができてないので」  それどころじゃないはずなのに、あたしたちを気遣かってくれるオーナーの優しさを嬉しく感じ、あたしは病院を後にした。  帰り道に朔良に電話をかけると、彼はまたも仕事に忙しいようで今日も帰ることができないと言う。これで三日連続家に帰ってきていない。火曜に帰ってきた以外、ずっと留守だ。  こんなことは初めてであたしは戸惑っていた。仕事が忙しいのはわかるけれど……そう思いながらも、あたしは彼を責めるのはやめ、電話を切った。  翌日、午前中から降り出した雨は、あたしの心模様に憂鬱を染みこませる。仕事にも身が入らず気分も重かったが、午後からは雨も上がり、晴れ渡る青空に架かる虹を見上げていると、あたしのそんなモヤモヤは嘘みたいに消し飛んだ。あたしの心は単純だ。ひとり心の中で笑う。  帰り道に心のオアシスへ……いつか朔良と一緒に始めるお店が、来店する人のオアシスになったらな……。  あたしの妄想は膨らみ気持ちも上がってくる。  でも残念なことに代理の男性はあたしのリングのサイズ直しを忘れていた。受け取りは明日になるらしい。  しかしあの冷静そうな人が、青い顔して慌てながら、リングの仕上げに掛かっていた。そんな意外な姿が見れて面白かったから、リングは明日のお楽しみにしよう。  軽く『LoOp』で珈琲を飲みながら、サイズ直しをする彼と少し話してあたしは帰宅した。  部屋にはいつものように彼がいない。田舎にいるときも、上京してからも、絶えず彼は側にいてくれた。たった数日、彼がいないだけでこんなにも気持ちが落ち着かなくなるなんて……。  彼の存在の大きさに驚き、そして感謝する。カーテンを開くと窓からは大きな青白い月が綺麗に見える。  あたしは彼に電話をし、今夜は帰ってこれるかどうか確認する。もし、また仕事が忙しく、帰ってこられなくてもいいんだ。  だってあたしはどっちにしろ、彼なしでは生きてはいけないんだから。
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