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「こんな森に子供がいるなんて珍しいね」
この場に似つかわしくない穏やかな声が降ってくる。その声に、魔物が後ずさり唸り声をあげた。
突然現れた長髪の人間は、魔物など存在しないかの様に、俺と視線を合わせるためにしゃがみこんだ。白いローブが泥に浸かる。
「あーあ。せっかく綺麗なのにこんなに汚れてしまって」
白くて長い手が殴る事なく、頬に張り付いた髪を払い泥を拭った。
「……は?」
「うーん。完全には落とせないねぇ。今日はとても冷えているし、私の家に行こうか。大貴族の家ほど立派なモノじゃないけれど、お風呂があるんだよ」
勝手に話を進める人間は、そのまま軽々と俺を抱えあげた。一気に遠ざかる地面に思わず縋ってしまった手を突っぱねる。
「…………はなせっ!!」
「それは無理かなぁ。目の前で子供が食い殺される所を見る趣味はないんだ」
頭を低く構え、牙を剥き出す魔物を一瞥すらせず歩き出す。ぎらつく赤い目が俺を見て、恐怖に身体が強張った。
「あ、怖い? じゃあ倒しておこうか」
言うやいなや俺を片手で抱え直し、緩慢な動きで掌を前に翳す。現れた二つの鏡が魔物の姿を映した。
「え、ぁ」
曇り一つない鏡に亀裂が入っていく度に魔物にも同じ様に亀裂が走り、身体が砕けていく。魔物特有の黒い血と毛が、飛び散って粉々になった鏡と共に濡れた地面へと広がった。
「もう大丈夫だよ」
魔物を殺した手が頭に触れる。自分の頭が砕ける様を想像して呼吸が乱れた。吸っても吸っても苦しい。喉から変な音がする。視界の端が黒く滲んで、どんどん浸食されていく。
「…………し、にたく、な!」
伸ばした所で握り返してくれる人なんていないのに。それでも手を伸ばしてしまったのは、まだ『誰か』がいると、期待しているからだろうか。
「大丈夫。大丈夫だよ。君を死なせたりしないから」
指先が温かい。冷え切った指には痛いほどの温かさは、思い出しちゃいけないものを抉りだしてきそうで。浸食してくる黒に身を委ね、きつく目を瞑る。
雨が次から次へと頬を流れていった。
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