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「長旅でお疲れでしょう。今から歓迎の支度をしますので、しばらくうちでお休みになりますか」
「そうさせてもらえるとありがたいです。…あの部屋は、まだ空いてますか?」
勇者としてこの村に召喚されてからしばらくの間、俺は牧師の家で暮らしていた。煉瓦造りの家の、二階の角部屋。新しく拵えたものなのか、家具にはどれも誰かが使った痕跡がなかった。もしかすると、「勇者」のために、わざわざ用意された部屋だったのかもしれない。
「ええ、勿論。空いていますとも」
牧師は鷹揚に頷いた。首に掛けられた十字架が、僅かに揺れる。
「ハイセのプディングを作りましょうか」
「ほんとですか? やった」
ハイセのプディングは、この世界に来て初めて食べたものだった。この村に成る木から採った果物で作った、プリンみたいなものだ。固体のような液体のような甘さを口に入れた瞬間、何故か涙が出そうになったのを覚えている。
そうしてこの世界にやってきた俺は、牧師に食事を振る舞われ、もてなされ、数日を過ごした。とても穏やかで、幸せで、どこか懐かしい日々を送るのも束の間、やがて人々を脅かす魔物と、その魔物を統べる魔王の噂が流れてきた。
夕食の席で、俺は牧師に尋ねた。
「初めて会った時、俺のことを『勇者様』って言いましたよね。今この世界を脅かしている魔王と、俺がこの世界に呼び出されたのは、何か関係があるんですか?」
そこで牧師は静かに口を開き、話をした。
この世界を脅かす魔王の存在。
魔王を撃ち滅ぼすために、別の世界から「勇者」を召喚したということ。
どこかのゲームかラノベで見たような設定。現代日本を生きた俺の頭は、直ぐに状況を飲み込むことができた。
「……魔王を倒していただけますか、勇者様」
「はい、頑張ります」
「えっ」
即答した俺に、牧師は目を丸くした。確かに魔王を倒せと言われて、はいそうしますというには中々勇気がいるけれど。
「でも、そのために俺を呼び出したんでしょ?」
「それはまあ、そうなのですが……」
「じゃあ頑張ります。それに」
俺は食卓を挟んだ向こう、牧師の顔をじっと見た。
「牧師さんも、魔王のせいで困っているんでしょ? それなら俺、頑張りますよ。牧師さんのために」
牧師は言葉を失ったようにしばらく黙ったまま動かなかった。そして、長い長い沈黙の後に、「ありがとうございます」と一言呟いた。
「でも俺、魔法?とか使えないと思うんですけど、大丈夫ですかね」
「それなら」
と、牧師が教会の裏から取り出したのは、一振りの剣だった。教会の白い光を集めて、剣の峰は銀色に輝いた。
「これはこの教会に代々伝わる、伝説の剣です。どうぞ持っていってください」
そして牧師は教えてくれた。勇者として王都へ行けば、支度金が貰えるということ。それを持って、仲間を募ればいいということ。王都への地図と優秀な騎士や僧侶、魔法使いの住む場所を記した紙を渡しながら、それでも牧師はどこか気が進まない様子だった。
「いってきます」
旅立ちの日、剣を背負い、村の皆に見送られながら手を振る俺に、牧師は「くれぐれも、お気をつけて」と、十字架を強く握っていた。
「ずっと、ここで祈っていました。あなたが無事に帰ってくるのを」
牧師の胸元で、十字架が揺れる。俺がいない間、この教会で毎日祈りを捧げていた両手は、硬く節くれだっていた。
「これから、どうされますか」
牧師の問い掛けに、俺は答える。
「ここで暮らします」
「……元の世界に戻りたいとは、思いませんか」
「元の世界にもまあ、未練はあるけど、俺はこの世界で生きていきたいです。この村で、みんなと、牧師さんと暮らしていきたい」
「……そうですか」
それは、とても光栄なことでございます、と応える声は、少し震えていた気がした。
「……では、村の皆さんも歓迎の支度を始めているでしょうし、私もプディングに取り掛からなければ。勇者様は、自室でくつろいでいてください」
一礼し、教会を去ろうとする牧師の背中を、俺は呼び止める。
「待ってください」
牧師は足を止めたけれど、こちらを振り返ろうとはしなかった。俺はそれでも構わずに、言葉を続ける。
「お聞きしたいことが、あるんです」
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