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「……ただ、私のために」
牧師はそれだけを言うと、俯き、目を閉じた。
そして暫くの後、目蓋を上げ、口を開いた。
「昨年亡くなった妻の墓前に、あなたを連れていきたかった。大きくなったあなたを、妻に見せたかった。
あなたにもう一度、ハイセのプディングを食べて欲しかった。あなたの好物だったから、きっとまた喜んでくれるだろうと思った。
二階の角部屋を、あなたに使って欲しかった。将来のためにと用意した家具が、無駄になってしまわないように。
……私の家で、ただあなたと暮らしたかった。
それだけのためです。
それだけの、私のためです」
頭の中で、一筋の川が流れる。
お婆さんが洗濯をする川だ。
やがて、一個の桃が運ばれてくる。
どんぶらこ、どんぶらこと川の中を流れてくる。
桃太郎を読み聞かせてくれたのは、確か、孤児院の先生だった。
俺は三歳の頃、河川敷で泣いているところを発見されて、保護された。当時の記憶はない。俺は自分の名前も、どこから来たのかも、覚えていなかったそうだ。
俺は冒険の道中、とある洋館で見つけた書物の内容を思い出していた。
その時は、気にも留めていなかった。ただ少し、記憶の中に引っかかっていただけで。
「ある書物の記録で、気になるものがあったんです。十数年前、この村の近くで、魔力の暴発事故がありましたよね。子供が一人、巻き込まれて行方不明になっている」
「……」
「その子供は、事故によって異世界に飛ばされてしまった」
「……」
「そこは、魔法などない、箒の替わりに飛行機が飛び、王様の代わりに国民が治める国だった。子供はその国で孤児として育てられ、十数年が経った」
「……」
「そして、その子供は、帰ってきた。
この世界に。勇者として」
この世界に最初に来て、初めて牧師と会った時のことを思い出した。鳶色の瞳は、僅かに潤んでいた。
「……牧師さん」
俺は、震える声で目の前の男を呼んだ。本当は違う風に呼びたいのに、上手く言葉にならないのだ。
一歩、二歩、前に進み出る。俺の身長は、とうに男を越していた。
「俺は、大きくなりましたか?」
男は、眉を下げ、微笑んだ。
「はい。立派に成長してくれましたね」
ふいに、光が差し込んだ。まばゆい光だ。天窓から溢れる白さが、祝福のように二人を照らしている。
牧師ではない。勇者ではない。
ここにいるのは、ただの親と子だった。
俺は鳶色の瞳を真っ直ぐに見て、帰還を告げた。
「ただいま、父さん」
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