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政宗が消えて紫織が動揺していたとき、政宗自身もまた自分の身に起きたことに戸惑っていた。
球体から発せられた強力な光りのせいで視力を奪われていたが、他の感覚も異常だ。いや、異常なのは感覚のほうではない。無臭とは違うが嗅覚が働かない臭い、無音と異なるが音を感じ取れない音、暖かくも寒くもなく、だからと言って快適でもない、まるで気温が存在しないような空気。何もかもが不自然だ。
政宗、よく来てくれました。
誰かが話しかけてきた。いや、違う。頭の中に声が直接響いてくるのだ。
「ハゥン?」
政宗はチカチカする眼を凝らして、自分に語りかける存在を確かめようとした。しかし、いくら眼をこらしても何も見えない。これは眼がチカついているからではない。政宗がいる空間が、明るくもなく暗くもないが地面も空もない、距離感すら掴めない不可思議な場所だからだ。政宗はその空間にただ独り浮いていた。
恐れる必要はありません。
パニックに陥りそうになると、謎の声が再び頭の中に響いた。女性とも男性とも判断できない年齢もよく判らない聞き覚えのない声なのに、何故か心が落ち着く。
ここに招いたのはあなたに害をなすためではなく、あなたにお願いがあったからです。
「クゥ~ン?」
政宗、あなたには今までいた世界とは別の世界に行ってもらいたいのです。
「ガウ!」
そう結論を焦らずに、最後まで話を聞いてください。
これは、あなたの夢を叶える話でもあるのです。
別の世界であなたは人間に転生します。
人間になりたい、それは確かに政宗の夢だ。
「ウゥ~」
あなたが普通の犬ではないことは解っています。
その能力を活かして新たな世界を救って欲しいのです、勇者として。
「ハフッ?」
勇者という言葉は何となく知っている。紫織が観ていたアニメの主人公が、そんな風に呼ばれていた。確かに格好良かったし、自分が勇者になれば紫織も喜ぶかもしれない。
「ガウガウガウ!」
そうですか、やる気が出てきたのですね、それは良かったです。
あなたは新しい世界で勇者としての能力も得られます。
身体能力が超人的と言うだけではなく、強大な魔力や人を惹き付ける魅力、そして不死に近い生命力などを。
確かに政宗にとって夢のような話だ。人間になれて、人並み外れた超能力も得られる。だが、彼にはそれ以上に重要なことがあった。
「ガウガウガウガウ?」
それは……
政宗が尋ねたのは、紫織たちの居る世界にいつ戻れるかだ。
もう、戻ることはできません。
あなたは、転生した世界で一生を終えます。
その後で再び今まで居た世界に転生することはあり得ます。
ただし、その際には政宗としての記憶は残っていません。
「……………………」
新しい世界でも、あなたを想い愛してくれる人たちは間違いなく居ます。
それは、今までの世界の人たちよりも比べものにならないくらい大勢でしょう。
「ワン!」
そんなものはいらない! と、政宗はキッパリと断った。人間になりたいのは紫織と話をしたいからだ。今でも彼女は政宗のことを察してくれるが、もっとハッキリと具体的に気持ちを伝えたい。そのために紫織と同じ人間になりたいのだ。だから紫織の元へ戻れないなら人間になっても意味がないし、そもそも異世界へ行く理由もない。
「ガウガウガウガウガウ」
あなたは選ばれたのです、だから……
「ワン!」
…………解りました。何があろうと、あなたは飼い主の元を離れたくないのですね。
「ウゥ~」
仕方ありませんね……
それなら、あなたの記憶を消して転生させます。
得体の知れない何かが政宗の頭の中に侵入してきた。それは彼の大切な記憶を破壊していく。
「グルルルル……」
政宗は必死に抵抗した。しかし、相手の能力は圧倒的だ。政宗は神という概念を知らないが、彼に敵対している存在はまさにそれだった。
「キュゥウウウ……」
抗いきれない、風前の灯火とはまさにこの事だ。政宗は紫織の記憶にしがみ付いた。彼女が初めて抱きしめてくれたときのこと、顔を舐めたときのくすぐったそうな顔、淋しくて泣いているときの後ろ姿……
いやだ、忘れたくない。一生話すことができなくても構わない。ただ、一緒に居たい、紫織と彼女の祖父や他の家族と共に。
それなのに、次々消えていく。さっきまで思い出せていたのに、次の瞬間、誰のことを考えていたのか判らなくなる。しがみ付いていたのに、砂の城のように崩れて消えてしまう。
「クゥ~ン」
思い出せない。今、目蓋に浮かぶのは、ここに連れてこられる前に見た紫織の寝顔だけだ。だが、それも消えていく……
「マサムネくん」
紫織の声が聞こえた気がした。
「マサムネくん」
幻聴だろうか。幻でも構わない、紫織の声をもっと聞きたい、紫織の姿を見たい、紫織に抱きしめてもらいたい。
「ワォオオオオオオン!」
政宗は力の限り叫んだ、自分の声が紫織に届くことを願って。
「マサムネくん、ここにいるのッ?」
再び紫織の幻聴がした。
「ジィジィ、マサムネくん、この中にいるみたい!」
「何だ、この玉は?」
今度は紫織だけではなく彼女の祖父の声まで聞こえた気がする。
そうだ、この声は紫織の祖父の声、政宗は思い出した。そして、今、聞いた声は幻聴ではないことにも気が付いた。
「ワォオオオオオオン!」
再び大声で叫ぶ、自分がここに居ることを知らせるために。
「また聞こえたよ!」
「うん、ジィジィにも聞こえたよ」
「この玉をこわせば、マサムネくん、もどってくるかな?」
え? 何を言って……
紫織の不穏な言葉に、政宗に高圧的だった声がうわずっている。
「よし、金槌を取ってこよう」
ま、まずい……わかりました、政宗、あなたは家族の元へ帰りなさい、記憶も返します!
政宗は再び光りに包まれた。
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