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「おい、黒川! どうした!?」  透馬は、彼の顔を見た瞬間泣き崩れた蝶子に駆け寄った。凌辱された後の体の痛みは既に忘れていた。  蝶子のただならぬ様子に彼の肝がサーっと冷えていく。彼女は鼻を啜りながらまるで譫言のように「ごめんね」と呟いていた。 「……ごめん。今泣き止むから。ごめんね」 「どうした!? 顔、腫れてるじゃねーか! 誰にやられたんだよ!?」  肩を掴み、彼は問いかける。だが、彼女は「違うの」「私が悪いの」とただただ首を振るばかりである。涙を拭おうとする手の隙間からチラッと見えた頬は腫れている。唇も切れているし、よく見ればいつも綺麗に整った髪の毛も乱れている。   「こういうところが、悪いの。……すぐ泣き止むから、ちょっと待って。十秒で泣き止むから……」  震える声を押し殺すように彼女はぎゅっと両手で顔を覆った。透馬は気づけば、拳を固く握りしめていた。 「また、見苦しいところを見せちゃったよね……。心配させてごめん。今度ゆっくり話すから」    両手に顔を埋めていた蝶子は、顔を上げる。そして、何事もなかったようにニコリと笑った。  透馬は気付けばそれと同時に彼女の肩を抱き寄せていた。 肩を抱き寄せると彼女は想像よりずっと華奢だったことが分かった。このまま抱きつぶしてしまいそうで、思わず彼の手が震える。  甘い髪の毛の匂いに顔を埋めながら、透馬が少しでも力を加えたら折れてしまいそうな薄い肢体を抱きとめた。   「泣き止まなくていい! 話したくないなら話さなくていい。けど、どんなことがあっても……、俺は味方だから。……頼むからもう俺に謝んないでくれよ」   「ちょ、ちょっと、山口……くん?」  彼女の手のひらが自分の胸の下あたりに置かれるのが分かる。  鼻声の彼女の疑念を漂わせた声が、少しくぐもって聴こえてきたところで、彼はハッと我に返る。そして、慌てて手を振り解いた。それから彼は両手を上げて、彼女と距離を取る。 「悪かった。こんなことするつもりじゃなかった。ただ……ただ……黒川にちょっとでもいいから会いたくて……」  彼はゆっくりと言葉を紡ぎ出した。   「待って、言わないで! だめだよ、私――」  彼女は次に繰り出される言葉を透馬よりもよく知っていた。  だが、彼は一つ息を吐くと、彼女の静止も聞かずに続けた。 「はは……。そんな拒絶しなくても、俺は自分の立場は分かってるって。黒川にはアイツがいて、特別な仲なんだろ。別に付け入ろうなんて思ってねえよ」  彼女は透馬が逃れられないほど真っ直ぐに瞳を見つめている。彼は初めて出会ったあの時のことを思い出していた。 『ありがと、でしょ?』   「俺、自分の思ったこととか考えたことを口にすんのがすごく苦手でさ……、すぐに頭が真っ白になんだ。それに加えてキレやすいしよ。口より先に手が出るどうしようもないガキだった。色んな奴らを傷つけて、裏切ってきた。  キレやすい性格は年少ぶち込まれて、それから相性のいい保護司にも出会って少しずつ治ってきてたと思う。でも口下手なのはそれからずっと治んなくてさ」 「どうして、……治そうと思ったの?」  蝶子がそうかすれた声で尋ねると、透馬は答えた。 「一目ぼれした女にお礼すら言えなかったんだ。命の恩人だったのに。……それがすげえ悔しかったから。  黒川のことが好きだった。  ……ずっと、ずっと、前から」  透馬が自分の想いを吐露したその瞬間、彼女のハッと息を呑む声が耳に届いた。 「分かってる。黒川が答えられねーことだって、俺のこと何とも思ってねーことだって。元々ただの片思いで済ますつもりだったし」  口に手を当てる彼女を見ながら、透馬は大きな肩を竦めた。 「けど、今ならこうして自分の気持ち、きちんと言葉で伝えられるようになったんだなって。黒川にこんなこと言っても困らせることになるだけだってことは分かってる。けど、あの時の俺とは違うってところを……、その……、見てもらいたくて。  迷惑は、かけねぇって言ったのに、変なこと言って悪かったよ」 「……ふふ。やっぱりそうだったんだ」  張りつめた糸が切れるように、彼女は柔らかく笑った。 「本当に変わったんだね。全然雰囲気違う」  じっと彼女に見つめられ、透馬は頬が熱くなるのを感じた。 「けど、龍弥にあれだけのことされたのに、私のこと好きだとか……? あははっ! やっぱり山口くんはおかしいよ」  彼女はそう言うとクスクスと笑った。   「も、もちろん沢海に殺される覚悟はしてるに決まってんだろ。それに、元々俺はアイツの奴隷(オモチャ)だしな。黒川にももうありったけの恥ずかしくてみっともねえ姿を見せちまったし、これ以上怖いモンもそうそうねぇよ」  蝶子の前で自慰をさせられたこと、それから袋叩きに遭ったこと、屈辱的な数々の出来事を思い出し、透馬はズキッと、恥辱の傷を痛めた。  その証拠に蝶子を抱きしめ、その体を感じたあたりから肛門のあたりがジクジクと疼いていた。すっかりあの化け物のような男によって引き起こされた恥辱的な日々の上で、開発されていた。 「山口くんは何が望みなの?」   「黒川と一緒にこれからもこうしていれたらいいなって。俺はただそれだけで十分幸せだから。  そのためだったらなんだってできる。殺されたって、構いやしない」  透馬はそう言って笑った。 「そんなのだめに決まってる」 「黒川、お前は俺に付き纏われてることにすればいい。実際そうだし」  しかし、彼の提案に彼女な強く首を振る。   「山口くんはそんな人じゃないじゃん! それに、既に知ってると思うけど、死ぬよりひどい目に遭うかもしれないんだよ」 「俺はいいんだって――」 「良い訳ないよ!!」  小さな体が、跳ねるその様子が可愛くて透馬は思わずフッと笑みを溢す。 「何で黒川がそんなに必死なんだよ」  そう言いながら、彼女と目が合い、笑うのをやめた。  彼を見つめる彼女のその眼差しは至って真剣だったからだ。 「な、なんだよ……何か言えよ」 「帰る……!」  くるっと踵を返す彼女の手を、咄嗟に透馬は力強く掴んだ。もちろん次に続く言葉なんて、透馬は考えていなかった。ただ、今離してはいけない気がしたのだ。  もう少しで彼女が分かる、そして()()()()()()ところまで来ていた気がしていた。 「こんなんで帰せるわけないだろ!!」  俯く彼女の顔を透馬は覗き込んで言った。 「見す見す帰らせれねー。どうしてもってんなら、せめて沢海のとこまで送る」  彼女を思いやる言葉は、不思議と彼の口からするすると溢れ出てきた。  透馬は手首を掴んで引っ張ろうとしたが、彼女は頑としてその場を動かない。振り向くと、地に根が張ったように、うつむいたまま佇んでいた。 「黒川?」   「ダメ! 龍弥に絶対詮索される!!」 「沢海は黒川がこういうことになってんの、知らないのか?」  大きく首を振って、彼女は「言ってない」と答える。 「何で? アイツなら何とかしてくれんじゃねーの」 「……違う。そうじゃなくて……」 「沢海にやられたのか?」  蝶子は首を横に振った。   「やっぱ、家族にやられたんだな。親か?」 「いや、これをやったのは、姉さん……。だけど……」  その時透馬はハッとした。  少年院に送致される前、父に殴りかかる透馬を止めに入った姉を殴ったことがあったからだ。彼はその時の彼女の腫れた顔を思い出し、唇を噛み締めた。  彼女を掴む手に力が籠る。  蝶子は彼の様子を窺いながら、ぽつぽつと今の状況を語り始めた。龍弥の機嫌を損ない、姉に皺寄せが来たこと。姉とは元々折り合いが悪く、怒りの矛先は蝶子に向いてしまったこと。父は彼女に対し龍弥に隷属することを望んでいて相談が出来ないこと、こういった事は何度かあったということだ。  「私に気に入らないことがあると、周りを人質にとるの。その人質は私のことを恨むでしょ? そうすると、すごく惨めな気分になる。段々と私が悪いって気分になって来ちゃうの」 「黒川……」   「そんな顔しないで、山口くん。私はそれでも、龍弥が好きだから……」  蝶子の真っ直ぐな視線から逃れるようにして、透馬は宙に視線を逸らす。 「どうして……! どうしてなんだよ?」 「山口くんも薄々気づいてると思うけど、私の居場所ってどこにもないの。息ができる場所が本当に少なくて。  ここは数少ない息継ぎの場所なんだけどね」  彼女はつんつんと、地面に向かって指を差すと笑う。透馬の目頭が熱くなった。 「龍弥しかいないの。私には……他に何もないから……」  「だ、だったら!」と、透馬が急に大きな声を出したので、彼女はビクッと小さな体を反応させた。 「だったら、俺が黒川の居場所になる」  彼はそう言った。 「悪(わり)い、もう無理だ。抑えらんねぇ……。沢海んとこだって、本当は、行かせたくねーよ。  いつも、こういう時どうしてんだよ……チクショウ……!」  透馬は頭をぐちゃぐちゃと搔きむしると悔しげにつぶやいた。 「ずっとああやってたのはこういうことだったのかよ……」 「え?」 「……いや」    透馬は意を決したようにふう、と息を吐くと「俺ん家、来いよ」と言った。 「さすがにこんな時間に男の子の部屋に上がり込むのはまずいよ……」 「嫌なら、姉貴の部屋とかあるけど」  彼女を手に入れることに少々必死になりすぎていたことに今更気付く。透馬は衝動的に口にした言葉に後悔した。 『死ねッ! この悪魔!!』    彼女が透馬に言った最後の言葉だ。  姉に手をあげてから、何年もまともに口をきいていなければ顔も合わせていない。彼女は一度も面会には来なかったし、自分のことをひどく嫌悪していることは目に見えている。 「俺んち親は帰り遅いし、俺に興味もねぇから多分バレやしないさ。ヘーキヘーキ」 「本当? もし鉢合わせちゃったら? 家族と仲悪いって前――」 「んああ? 大丈夫、そんなんそん時何とかする」 「お姉さんとお話はできそうなの?」 「ああ、姉貴には何とか言っておく。俺が全部、なんとかすっから。大丈夫」  蝶子が訝しげな様子で彼の顔を覗き込む。  熱を持ち、ジンジンと勃起する陽根に気づかれそうな緊張感の中、彼は何とか誤魔化すように笑みを作った。
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