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「ねえ、名無しさんの正体って、山口くんだよね?」  そう言った彼女に、透馬は「……そんなわけ!」と咄嗟に叫んだ。 「どうして嘘つくの? 恥ずかしいから? 龍弥に酷いことされてるのって、私と関係してるでしょ?」  透馬は彼女の言葉に真っ赤になった。体温が上がり、全身の血液が蒸発するのではないかと思うほどだ。さっきまでつらつらと嘘までついて取り繕ってきた言葉が、不思議なことに全く出てこなくなった。 「山口くん、私の前でわざとノートの字汚く書いてるでしょ。でもどんなに雑に書いても、元々几帳面な性格が最後の一画に出てるからね。  それに手紙で身元を隠せば、龍弥にバレずに私に接触できるもんね。いい方法だと思う。  それから……、名無しさんも嘘つくのが苦手って言ってた」  蝶子は口をパクパクさせながら、何とか弁明しようとする透馬に笑いかけた。 「どう? 合ってる?」 「ち、ちが……ッ」  透馬はそこまで言いかけると、観念したように広い肩を竦め、「そうだ」と言った。 「入学式の日、黒川に声を掛けようと思ったけど掛けられなかった。それからもずっと俺は黒川に声を掛けられなかった。たった一言、『ありがとう』すら言えなかった。でも、手紙だったらゆっくり言葉を考えられるし、話せるんじゃないかって……。  でも、結局できなくて……。  夏休みが明けてから、決心がついて……。  そうだよ、こんなダサい真似バレるのは恥ずいだろ……」  彼女はそこまで聞くと、「夏休み、ね」と言った。  それから、「私は嬉しかったよ」と続ける。 「そ、そりゃあ……良かった」  ほんのりと頬を染める彼女の様子を見て、透馬はふっと笑みを溢した。「本当に、良かった」と心の底から思った気持ちが言葉となって素直に滑り出てきた。 「へへっ、私って名探偵? 私も結構山口くんのことよく見てるでしょ」   「そうだな。けど、一個だけ訂正させろよ」  得意げな表情の彼女に向かって、透馬は言った。 「俺が手紙って手段を選んだのは、別に沢海が怖かったわけじゃねえ」 「……そうだったんだ。じゃあ、一体どうして?」 「俺は、黒川の助けになりたかった。手紙の中だったら、お前の気持ちに寄り添えるだろ……」  彼の言葉に、蝶子は今度こそ頬を真っ赤にした。「え……」と動揺しながら、前髪を仕切りに触りながら目線を落とした。 「それに、指定校狙ってるやつが授業休んだらヤバいだろ? 俺は黒川の成績も心配してノートをあげてたんだ」 「な、なによそれ!」  蝶子は透馬のすぐ横にころりと転がった。小さな手指の隙間から覗く彼女の顔は真っ赤に染まっていた。  ふわりとした彼女の匂いが透馬の鼻腔をくすぐった。  これまで見たことのない蝶子の姿を前に、彼は胸のあたりが抉れる思いがした。  彼の陰茎はとうとう限界を迎えた陰茎はパンパンに張り詰め、尿道が痛いほどだ。 「そ、そういや……、姉貴に頼むんだった」 「あ、そうだね……うん」  二人して視線を合わせては外し、それから照れ笑いする。  ――ダメだ、流石に。これ以上は手ェ出ちまう。 「ちょ、ちょっとそこで待っててくれ」  蝶子に何とか声を掛けると透馬は急いで部屋を飛び出した。  ※  一人残された蝶子は心臓を抑え込むように、膝を抱えた。だが、その高鳴りは消えない。 「何よ……。山口くんは、これまでもずっと支えてくれてたっていうの?」    蝶子は膝に顔を埋めると、ぽつりと呟いた。    コンコン  ちょうどその時部屋の扉がノックされ、蝶子はハッとして顔を上げる。  顔を覗かせたのは、知らない女性だった。だが、名乗らずともその正体はすぐに分かった。  切れ長な瞳にやや上がり目のアーチ形眉、そして彼によく似た目元は、凄むように蝶子を見下ろした。なんと、漂う威圧感までもがまるでそっくりだった。  ――山口くんの、お姉さんだ……。  そう思った瞬間、蝶子は慌てて腰を上げると頭を下げる。 「弟から事情は聞いたわ。来なよ」  彼女は酷くつっけんどんにそういうと、背後を顎でしゃくった。 「はっ、はい!!」  ――どうしよう、申し訳ないけど、めちゃくちゃ怖い……!!  蝶子は全く歓迎されていない雰囲気の中、おどおどと後をついていく。  彼女は自分の部屋に蝶子を押し入れると、扉をバタンと閉めた。  その瞬間、彼女は蝶子の肩を掴むと「ねえ!」と叫んだ。   「ででででっ! アンタ、マジなの!?」 「え?」  突然の態度の代わりように、蝶子は頭が追い付かず、唖然とする。声を潜めてはいるが、まるで詰問するような言い方の裏腹、きりっとした眼差しは好奇心でキラキラと煌いていた。  蝶子は何に対しての()()なのかが分からず、思わずキョトンとしてしまう。 「だーかーらー! うちの弟と、マジで付き合ってんのかって」  言い方を変え、もう一度蝶子に対して尋ねたとき、彼女は慌てて透馬の姉に頭を下げた。 「は、はい!! えーっと――」 「なに、頭湧いてんの? それとも、脅されてる?」  ――そ、そう言えば彼女って設定にするって話だった!!  透馬の家に向かう途中、そんな話をしたのを蝶子は思い出す。 「あ、すすすすみませんっ! 私、挨拶もまだで……!!」  そう言うと、蝶子は深々とその場で頭を下げる。 「山口透馬くんとお付き合いさせていただいてます、同じクラスの黒川蝶子と申します。……その、この度は――」 「あーあーあー、いいってそんな堅苦しいのは!!」  彼女は煩わしそうに蝶子の言葉を遮る。   「そんなことより、ねえ! アイツのどこが良くて付き合ったの? てか、アンタの前ではどんな感じなのよ?」   「それは――」  矢継ぎ早に繰り出される質問に対し、彼女は一つずつ丁寧に答えて言った。  折り合いの悪い家族のことで心配してもらっていること、いつも勉強を教えてもらっていること、毎日屋上で一緒にご飯を食べていること……。蝶子は彼の様子も交えながらつらつらと話した。  まるで自分の口から飛び出しているなんて思えないほど、ぺらぺらと淀みなく言葉が出て来た。  蝶子は彼を思い出しながら、話していくうちに不思議と緊張はなくなっていった。 「……山口くんは頭が良くて、強くて、カッコいいんです! あ、まあお姉さんの言う通り、最初は少し話すのは怖くて緊張したんですけどね。話したらとっても優しいし、明るいし、面白い人で、私、山口くんのおかげで毎日がすごく楽しいんです――」  ガゴッと大きな音で、蝶子はハッと我に返る。透馬の姉が救急箱を床に落としたのだ。顔を上げると、切れ長の目元をまん丸くして、驚く彼女と目が合った。口をあんぐりと開け、呆けた顔(かんばせ)を浮かべている。  ここにきてようやく、蝶子は再び羞恥が沸き上がる。こんなことをもし本人に聞かれてしまったら、恥ずかしさの余り心臓が爆発してしまうだろうと思った。 「あ、ごめんごめん。……手当てしないとね!」  動揺を誤魔化すように、彼女は素早く散らばった道具をかき集める。そして、蝶子を座らせると手当てを始めた。 「アンタ、本っ当に……」  唇にできた傷を消毒しながら、顔を覗き込まれる。先ほどの敵意のようなものはそこにはなく、好奇心とほんの少しの呆れが浮かんでいた。 「ふふっ、確かに可愛いわ。……気に入った!! アタシは卯月(うづき)、よろしく」    そう言って右手を差し出され、蝶子は恐る恐る手を伸ばす。卯月はそんな彼女の手をバチっと力強く掴むと、片方の手でバチバチと背中を叩いた。 「卯月、さん……!」  彼女に差し出された手はゴリゴリに爪が装飾されている。それをみながら、彼女はその手を握り返した。  卯月は「はぁー」と大きなため息を吐くと改めてまじまじと蝶子を見つめる。 「こんな良い子があんな奴と付き合ってんのかって思うと、何か現実味無いわぁ。別れたらすぐに私がいい人紹介してやるから、何かあったらすぐいいなね?」 「そ、そんな!」    蝶子は全力で拒否するように、両手を振った。  その様子に卯月はもう一度吹き出すと、「冗談冗談」と言って笑った。 「アイツとはもう何年も喋ってないのよ。あ、知らなかった? それでさあ、血相欠いていきなり土下座してきて何かと思ったら、よぉ。本当にびっくりしたんだから、アタシ」 「そ、そうだったんですか!?」  驚きの余り声が上擦る蝶子に対し、彼女は優しく微笑む。 「へー、でもアイツって根は悪いやつじゃないのかね? こんないい子捕まえるくらいだし? なんて、そんなことないわ。アイツは頭のネジぶっ飛んでるし、アタシら家族えらい目に遭ってるからね。……おっと、これ以上口滑らせたら、透馬の野郎に殺されちゃうからやめとくわ。でも案外……アイツが落ち着いてきたのって、蝶子ちゃんのお陰、だったりしてね」  何やら遠い目をしながら、卯月は蝶子の知らない話をペラペラと捲し立てた。 「あ、あと、うちの親にはうまく隠しとくからさ、いつでもうちに来てやってよ」 「は、はい!! ありがとうございます!」  彼女はニヤニヤとしながら、まるで旧い友人に接するかのように蝶子に対して親し気に笑ったのだった。 ※ 「あぁ、クソッ……!」  透馬はもう何度目か分からない、自分の体の熱に苛立ち、悪態を吐く。  ――さっき、抜いたばっかだってのによ……。  卯月の蝶子への態度に、ハラハラしながらも、指をくわえて見ていた透馬はすかさず姉の部屋に聞き耳を立てた。 『……山口くんは数学が得意で――、――だし、それに背も高くてかっこいいですよね』  どうやら、透馬の好きなところをいい並べている場面のようだった。 「は、はあ!?」    彼女の言葉が頭の中を反芻し、透馬は急いでその場を後にした。あまりの羞恥心に居た堪れなくなったのだ。  彼女が座っていたシーツに顔を埋める。まだ、残り香が残っているような気がする。思わず肉棒に手が伸びた。 「……かっこいい、か。……いや、彼女設定だからこんぐらい言わねえと不自然だろ」  三度目に果てた透馬は、人知れずぽつりとぼやいた。自慰のおかげでふやけていた脳が、再びクリアになっていく。  ちょうどその時、自室のドアがノックされ、透馬は慌てて表情を固めた。「何だよ」と、ノックに答えてから腰を上げると、外から押し出されるように飛び入る蝶子とぶつかりそうになる。 「ごめん透馬。アタシそう言えば布団、この前整理したときに捨てたんだったわ。てか、アンタ、彼氏なんだったら、こんな時くらい一緒に居てやんな」 「……なっ――」  卯月は静止しようとする彼の返答を待たずして、蝶子を彼の胸に押し付けたのだ。 「うわ!」  驚いて声を上げる蝶子の薄い体を何とか抱き留めると、透馬は卯月の方を振り返った。ちょうど悪戯気な表情を浮かべて親指を立てた彼女の姿を辛うじてとらえる。   「大丈夫か?」 「えへへ、追い出されちゃった」  床にぺたりと座った彼女は頭を掻いて笑った。姉のハーフパンツからちらりと除く太腿の白さに、透馬はゴクリと生唾を飲み込んだ。 「べ、ベッド……黒川が使いな」 「うん、ありがとう」  蝶子がもぞもぞとベッドに向かう姿を見て、透馬は頭を抱えた。  透馬は卯月とどんな会話をしたのか気になったが、急いで電気を消した。すると、「寝るの早いんだね」と蝶子が笑った。 「今日は色々あったから疲れたんだ」 「そうだね。ホントにありがと」 「ああ、黒川も疲れただろ。おやすみ」 「おやすみ」  そんなやりとりを数分後だった。 「あ!! 待って、大変」  蝶子が大きな声を出したものだから、透馬の巨体は驚きの余り跳ねた。 「な、なんだよ!」 「山口くん、どうしよう……」 「だ、だからどうしたんだよ」  彼女が心配になり、透馬は電気をつけた。申し訳なさそうに顔を歪める蝶子に、「どうした?」と再び問いかけた。 「ごめん……、私……」  彼女の顔がぐちゃりと歪んだ。 「山口くんに作ったクッキー、姉さんに見られちゃって、それで……」 「それで、どうした?」 「龍弥に絶対言いつけられる。どうしよう。私が、変なことしちゃったから……ごめん、山口くん」 「分かった、じゃあ俺が黒川を守る。だから心配すんな」 「違うってば! 私は大丈夫なの。龍弥も馬鹿じゃないから、手は出さないよ。お父さん、一応沢海會の理事だし……」  透馬はその言葉に「なんだよ」と腰を落ち着けた。 「なんだよ、って何よ! 分かってる? 本当に殺されちゃうかも。いや、死ぬよりひどい目に遭うかもしれないんだよ?」  今にも泣きだしそうな彼女を見かねた透馬は、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。「俺は大丈夫だから落ち着けって」と言って、彼女の肩を持つと、優しく笑った。 「私のせいで……、私が――」 「違う。黒川のせいじゃない。俺は、おかし作ってくれた写真見て、すげえ嬉しかったよ。今すぐにでも会いたくなったぐらい」  彼女の目尻からポロリと涙が落ちた。それを人差し指で拭うと、「大丈夫、罪悪感なんて感じなくていい」と言った。    「オレは黒川のことを愛してる、誰よりも大事に思ってる。意味、分かるか?」  蝶子は唇を真っ白になるまで噛み締めると、ゆっくりと首を横に振った。 「それには私、答えられないよ……」 「違う。……黒川が幸せだったら、それでいいんだ」  透馬はそう言うと、彼女をゆっくりと押し倒した。薄い寝間着一枚隔てた向こうの肌触りに、煽情的な欲望が押し寄せてくる。何度も夢想した柔らかい唇ときめ細やかな頬、細い髪の毛、そして麗かな瞳がすぐそばにあった。  透馬はふう、と一息つくと、迫りくる激情を押さえつけながら、「もう寝ろ」と彼女を寝かせると、布団を掛けた。 「黒川は知らねえかもだけど、俺、こう見えて喧嘩は負けなしだったんだぜ」 「嘘つき」  蝶子は布団の下でくぐもった声を上げた。
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