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 次の日、蝶子と透馬は太陽が昇るとすぐに家を出た。  寝れたか、と聞かれ、蝶子は「うん」と答える。  良かったと笑う彼の目下にはうっすらとクマが浮かんでいた。    「山口くんのお姉さん、卯月さん、イイ人だったね」  蝶子は彼の顔をチラリと覗いて言った。 「うちんちなんてひどいんだよ。姉さんは言わずもがなだけど、私のお父さんもひどいの。姉さんから殴られたって話したら、『こんな歳にもなって姉妹(きょうだい)喧嘩とはみっともない』だって」  蝶子は父の口調を真似ながら文句を言うので、透馬は結んでいた口を緩めてふっと笑った。   「あのさ、山口くん的には家族ときっと、色々あったのかもしれないね。けど、少しずつでいいからちゃんと向き合って話してみたらどうかな。あのね、お姉さん、すごく山口くんのことを知りたがってたよ」  彼女は卯月とのやりとりを思い出しながらそう言った。  「黒川がそう言うんなら……考えとく」  透馬の返事に彼女は満足そうに頷くと、「仲直りできるといいね」と言った。    そんなやりとりをしてから一週間が経った。  あれから、蝶子のもとに龍弥からは何の連絡もなく、茜も家には帰ってきていないようだった。   「ねぇ、龍弥とかから連絡来た? 酷いこと、されてない?」 「ん? なんもねえよ、大丈夫。黒川こそ、何か変わったことはねえか?」  いつも彼女は決まって、二人きりの屋上で透馬に問いかけた。龍弥の仕事柄、一週間や二週間程度音沙汰がないのは良くあることだったが、蝶子は嫌な予感がしていたのだ。  そして問われた彼はいつも決まって蝶子の心配をする。首を横に振ると、「よかった」と言うのだ。   「お姉さんが帰って来たり、沢海からなんか連絡来たら俺に連絡してくれ。絶対一人で会わないと約束して欲しい」 「分かってるって。その代わり山口くんもね」 「ああ、約束だ」    あの日から、透馬の行動は大胆になった。人目を憚らず、蝶子と二人で行動をすることが多くなった。  登下校の際には、百足の黒いプリウスを見かけると必ず透馬がやってくるものだから、すっかり彼らは顔見知りになってしまった。  彼の横顔を見つめながら、蝶子は緩む頬を抑えた。  目の前の粗暴な見た目の男は、大きな傷だらけの手で青チャートを広げている。その様子が面白くて蝶子はクスリと笑ってしまう。  透馬が顔を上げ、蝶子はこちらを睨み上げる視線と目が合う。 「なんだよ」 「ううん、別に。百足さんが、山口くんも車、乗ってけばって」    透馬は再び表情を強張らせた。知らない人がそれを見たら、きっと激怒しているように映るかもしれない。しかし、今の蝶子にはその表情の意味が分かる。 「あ、ああ……。せっかくなら、そう、しようかな……」  彼女の言葉に、厳めしい表情のまま彼は顔を赤らめた。  その時、彼のスマートフォンがブブッと振動し、画面を見た彼の顔色が変わる。 「見せて」  彼女は目ざとく顔の変化を察知すると、スマホを透馬の手から奪い取った。  沢海龍弥から、位置情報が送られてきていた。  その日、屋上から教室から戻ると、険しい顔つきをした蝶子に「黒川さん」と声を掛ける者がいた。 「……山田さん。どうしたの?」  彼女は突然話しかけられたことに内心びっくりしたが、笑顔を取り繕って繭子に顔を向ける。彼女はそわそわと指先を弄びながら、蝶子の傍に立っていた。 「ねえ、黒川さんって……彼氏さんと別れたの?」 「え?」 「あ、あの、銀髪のすごくきれいな顔をした大人の男の人……、彼氏さんよね? 以前はよく校門のところで黒川さんを送り迎えしているのを見かけたから……」  蝶子は彼女の質問の真意が分からず、難しい顔つきをした。すると、繭子は「気を悪くしたらごめんなさい!」と慌てて付け加えた。 「最近山口くんとよくいるのを見かけるし、彼氏さんらしき方はあまり見かけなくなったから、もしかしてその彼とは別れて山口くんと交際なさってるのかなって気になったの」  横髪を弄りながら真っ赤になる彼女を見つめながら、蝶子は目を(しば)かせた。  それから少し考えると、「別れてないよ」と答えた。 「だから、山口くんとは付き合ってないよ」   「そうだったのね! 私ったら変なことを聞いてごめんなさい」    繭子は平気な素振りをしているようだったが、蝶子には思いの丈がバレバレだった。  浮足立ってその場を後にする彼女の後姿を見ながら、蝶子は頭を抱えるのだった。    ※    龍弥から送られてきた位置情報は、都内中央部に位置する工場エリアだった。透馬と蝶子は立ち入り禁止のロープをくぐり進むと、がらんとした今は使われていない様子の工場の区画にたどり着いた。  もう二十時前だと言うのに、辺りはほんのり薄明るい。   「ここ知ってる。沢海會が企業支配してる運輸会社の倉庫だ」  目的地に向かいながら、蝶子は呟いた。 「企業支配、か。俺バラされでもすんのかな」  透馬は軽いノリで言ったつもりだったが、蝶子は「ふざけないで」と怒った。 「はい、これお守り」  そう言って彼女は透馬の掌に懐中電灯のような円筒を握らせる。手に乗せた瞬間ずっしりとした重さを感じた。 「これ――」 「スタンガンだよ。私の護身用。結構重たいからあんまり持ち歩いてないけど……」 「……既製品、じゃねえよな? 俺、これ見たことある」  透馬は苦笑いを浮かべながら言った。 「嘘よ、だって私が作ったもの」 「嘘じゃねえさ、当てられたこともあるぞ。痛すぎて水ぶくれになった」  得意げに言った彼女は、透馬の言葉に目を丸くした。 「そうなんだ。じゃあ出力電圧は二百万くらい? それは似てるけど別のものよ。  コレは出力電圧は大しておっきく出来なかったんだけど、電流の方を改造して既定の五ミリより上にしたの。そうすることで威力を強く改良したのよ」 「つまり、どういうことだ……?」 「だからね、これを当てたら、水ぶくれなんかじゃすまないって事」    透馬は今しがた手にした武器に見つめると戦慄した。   「威嚇スパークリングをつけたら重くなるからつけてない。だからあてると音は小さいけど、皮下組織まで灼け溶けると思う。……ってなんで笑ってんのよ、もう!!」 「わ、悪ぃ悪ぃ! ふははっ! 何か元気出たわ、さんきゅ」  彼女は膨れっ面をすると、もう! と透馬の脇腹を小突いた。 「龍弥でもちゃんと当てたらただじゃすまないと思うから、そこは安心して」 「そっか」  透馬はぎゅっとスタンガンを握りしめた。それから、「ありがとな」と呟いた。 「……山口くん、初めて会った時、本当にどうでもいいって顔してた」 「そうだっけか」 「うん。そんな顔してお礼を言うような人じゃなかった。蛍原くんたちは度胸があるっていってたけど、それは違うってずっと思ってた」  見る見るうちに彼女の顔が曇っていくのが分かった。 「それって、ただ自分の命に無頓着なだけなんじゃないかな。今だって……」 「悪ぃ……。ここに来たこと、怒ってんのか?」  透馬が大きな背を屈めて彼女の顔を覗き込むと、不貞腐れた表情で蝶子は背を向けた。 「だって、こんなの普通行かないじゃん! どうして言いなりなの? あの時だって、一度も逆らおうとしなかった……!」 「ごめん……」 「ごめんだけじゃ、わかんない」  そう言った蝶子の声音は今にも泣きだしそうに震えていて、透馬は何も言えなくなった。しばらくそうしているとやがて彼女は、ハッとした様子で目を見張ると、「ごめんなさい」と謝った。 「私、最初に詮索しないって言ったのに。ごめん……」 「あのな、黒川……。俺、ストーカーしてたんだ。お前に初めて会ったあの日からずっと」  倉庫の前で佇む透馬に、潮風が五月蠅いほどに頬に叩きつけた。彼女の眦が大きく見開かれるのが、厭によくわかる。 「黒川のこと、実はしばらくの間ずっと盗撮した。黒川が落とした持ち物とか、写真とか、そういうのを収集してたのが沢海にバレたんだ。  俺が北東学院来たのも黒川目当てだったし、入ってからも勉強頑張れたのは……、黒川がトー大目指してるって知ったからだ」  透馬は俯くと、「ごめんな」と謝った。握った拳を見つめながら、ふう、と一呼吸置く。 「俺はイイ人なんかじゃない。黒川に出会う前、俺はたくさん悪ぃことしたし、意味もなくたくさんの人間を傷つけた。その中には病院送りになったやつとか、何も悪いことをしてないやつとかもいる。女だって男だって、見境なく傷つけた。犯罪なんていちいち覚えてねーくらい犯した……」  蝶子は黙っている。  何人、何十人に囲まれても、いくら蹂躙されようと震えることのなかった拳は、情けないほどにわなわなと震えていた。 「黒川は命に無頓着だっつーけどよ、今は毎日楽しくて、まだくたばりたくねぇよ。でもこれは、俺が行ってきた数ある悪事の内、たった一つに対してのケジメなんだと思う。  ……だから俺の心配なんてのは考えなくていい。この先は、黒川は自分のことだけ考えてりゃいいんだ。もう一度、沢海とこのままでいいのか、見つめ直してほしい。  俺が、ずっと沢海に黙って従ってた理由は簡単だ。  名無しさんがいなくなったら、黒川は学校で笑えなくなっちまうだろう?」  透馬はそう言い残すと、彼女を置いて駆け出した。  彼女からの返事はなかった。そして、追いかけてくる様子もなかった。  二つの倉庫を走り抜けて、さび付いたコンテナを横切る。  その時だった。  サッと吹き抜けた風にのって、匂いがした。久々に嗅いだ匂いに透馬の背筋に寒気が走った。  その瞬間、背中を鋭い痛みが走り、喘ぐように息をしてよろめいた。  ――上か!!  そう透馬が思った時には遅かった。透馬の上から、白スーツに身を包んだ男が降って来た。  龍弥だ。  彼が手にした鉄パイプが、再び振り下ろされる。  透馬はスタンガンを繰り出す暇もなかった。鉄パイプではその間合いに入れない。顔面に繰り出された鉄パイプを反射的に掴み、右手のスタンガンを龍弥の胴体を目掛けて当てがった。  しかし、龍弥は手で払いのけると、ガラ空きの脇腹に目掛けて回し蹴りした。  「それ、蝶子か」とせせら笑う。 「相変わらず手緩いなぁ、蝶子。いるんだろ?」 「……黒川は、来ない。全部話した」  ぜぇぜぇと肩で息しながら、透馬は答えた。その途端、龍弥は大声で笑いだした。一通り笑い終えると、「お前は馬鹿なのか?」と、叫ぶ。   「じゃあ、何でノコノコと来たんだ? 死にに来たのか?」 「黒川を解放してやって欲しい……。俺はどうなっても構わないから――」 「ははははは!! 何言いだすかと思えば!! 本当にお前は自分の立場が分かっちゃいねえんだな、山口!!   何も知らねえ奴が……!  解放? 解放してやったのはこの俺だ! あの退廃した黒川の呪縛と、蝶子自身の陰惨な未来からな!!」  龍弥は彼の申し出を笑い飛ばすと、透馬を見据えた。 「もうどうせ壊れた玩具だしな、てめえは。……面倒だ。とっとと死ね」  かちり、と金属音が鳴る。レボルバーを回す音だ。  引き金を引く。  そして、龍弥はニヤリと笑うと引き金を引いた。  
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