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2
蝶子はぼんやりとした表情で真っ白な天井を眺めた。彼女の頭に腕を回し腕枕をする龍弥が話しかけるが、当の本人はまるで上の空の様子だ。
『怖がらせて、悪かったな……』
彼女は伏し目がちにぎゅっと下唇を噛み締めた透馬の顔を思い出す。
「――おい、聞いてんのか蝶子」
龍弥から唐突に顔を覗き込まれ、彼女はハッと我に返る。
「え、何? ごめん、もっかい言って」
「アイツに何言われたんだ、と聞いている」
何も? と、咄嗟に蝶子は答えていた。
彼の首元にある黒龍の黄色い目を見つめる。彼の真っ白な首筋には竜が蜷局を巻くように、肢体をうねらせていた。
「そうか」
素っ気無くそう返すと、彼は蝶子を抱き寄せて唇を重ねて来た。熱を持った吐息を吐きながら、その唇に何度かキスを落とすが、蝶子はぼうっとしている。やがて、龍弥はその様子にしびれを切らしたようだった。龍弥は怪訝そうに眉を顰め、再び蝶子の視界に飛び込んできた。
「さっきから何考えてんだ?」
切れ長な目元と平行な眉を歪ませ、彼は凄む。
噛み付かんばかりに威嚇する彼に、思わずフッと吹きだす。彼女は微笑みを浮かべると、龍弥の首にじゃれ付くように纏わりついた。
「ごめんごめん。明日の小テストがヤバいなって思ってただけ」
「あぁ? しょーもねぇヤツだ」
つっけんどんな返事と裏腹に、彼の舌遣いは優しく繊細だ。
「ごめんって龍弥。怒んないで」
宥めるように彼女は優しく言うと、龍弥に乱暴に組み倒される。彼はショーツに手を入れ、丁寧に愛撫していく。
「お前の心も体も俺のモンだ。分かってるよな?」
コクコクと頷き、体を預ける。うぅ……、と甘い喘ぎが吐息と共に漏れ出す。
ベッドに手をついた彼の盛り上がる三角筋と、それから上腕筋に手を滑らせながら濡れた目で彼の目を見つめる。龍弥は全てを手にしているというのに、やつれた獣ような目をしていた。
彼の体の線をなぞりながら、ふと、蝶子は透馬の筋骨の曲線美を思い出す。戦傷だらけの褐色の逞しい身体つきとは裏腹に、彼の瞳は優しかった。
彼女は慌てて彼の裸を頭から閉め出すと、彼の麗しいほどに整った頬を優しく撫でる。彼の体が呼応するように、小さく跳ねた。
「腕回せ」
息を荒げて彼は吠えた。飢えを満たすように、蝶子は背中に手を回す。
「キスぐらい、しろや。気が利きかねえな」
「ううぁ……、はあ……ッ、りゅうや」
龍弥は彼女の顎を掴むと、乱暴に正面を向かせ、それから唇を啄ついばんだ。蝶子はそれを大人しく飲むと、彼の吐息はどんどん熱を帯びていく。
「ちょうこ……ッ!」
龍弥の陰茎が蝶子の中に入って来る。何の抵抗もなく、彼を咥えると、蝶子は耳、頬、そして唇に口づけを這わすように施した。
彼は何度も体を揺らしながら、やがて、逸物を抜き取ると、早々に白濁汁をシーツに飛ばした。
「へ……、久しぶりだったな」
満足そうに横に転がる彼を確認すると、蝶子は仰向けになった。先ほどのように、天井を見つめる。そして、彼らしくないな、とぼんやりと思ったのだった。
――前の龍弥みたい。
再び彼女の脳裏に透馬の精悍な顔が目に浮かんだ。
居心地が悪いな、と薄ぼんやりと彼女は思った。
※
翌朝、恐る恐る教室に入った蝶子は一歩入った途端、咄嗟に俯いてしまった。
顔を腫らした透馬と目が合ったからだ。彼は大きなマスクをしていたが、目の周りは怪我で大きく腫れあがっていた。
――ああ、やっちゃった。顔上げらんないや……。
蝶子はそのまま床を見つめながら自分の席に着いた。
それから、一番に机の中を確認するが、送り主不明の手紙の返事は来ていなかった。
彼女はルーズリーフを一枚取り出すと、シャーペンを奔らせた。
【拝啓、名無しさん。聞いてください。私は、悪気なく、クラスメイトのとある子に感じの悪い態度をとってしまいました。非常にセンシティブな問題だから詳細は伏せますが、弁明して謝りたいし、本当は少し話してみたい気もします。名無しちゃんだったらどうしますか?】
そこまで書くと、一旦紙をしまう。生徒会長の山田繭子が、こちらに向かって歩いてきたからだ。
「黒川さん」
容姿端麗な彼女は、蝶子の名前を呼ぶとそこで一度口を噤んだ。蝶子が顔を上げると、山田はつと視線を横に逸らす。
「クラス会があるのよね、来週。……黒川さんも、ぜひどうかしら」
「ごめんね、行かないと思う……」
蝶子は愛想笑いを浮かべると、もう一度頭を下げた。
「そう……、よね。残念だけど、気が変わったら、ぜひ」
山田は言葉通り、残念そうに顔を歪めた。彼女が蝶子の下を離れると、張りつめた空気が緩んだかように、ふう、と息を吐いた。
それから蝶子は、そのまま透馬の席に駆けていく山田さんを見つめる。
「や、山口君! 顔、どうしたの!?」
その言葉に、蝶子はギュンっと心臓が爆ぜそうになるのを抑える。教科書を用意する振りをして、聞き耳を立てた。
「……転んだ」
「そ、うなんだ……。大丈夫?」
そこで会話が途切れ、一瞬の間が開く。「あっ、えーっと」と、彼女はどもった。
全校生徒の前でも、怖い先生や先輩の前でも、台本なしではっきりと意見を言える山田の意外な一面に、蝶子は思わず笑みを溢した。
「クラス会、の話だよな? 俺も行かないかな。悪わりぃな」
「そうよね……。一度くらい来てほしかったな」
彼女は露骨に残念そうな表情を見せた。
「せっかく声かけてくれたのに、悪い」
「いいえ。お大事に」
二人のやり取りを見守りながら、彼女は彼のことを考えた。
それから授業が始まっても、透馬のことが頭から離れなかった。
龍弥との間に何があったのかを直接聞きたいと思った彼女は、休み時間や教室移動などを狙って何度も声を掛けようと試みた。
しかし、とうとう実行に至れず、放課後になってしまった。
――でも、謝ってそれから……真実を聞いて、どうする? 彼の立場に立ってみれば一刻も早く忘れてほしい話よね。……うん、自分であったらそうだな。
蝶子は出来ない理由を論え、自分を納得させた。フッと心が軽くなった気がした。
彼女は一人になった教室で、先ほどの手紙に続きを書いた。
【結局声はかけられなかったです。でも、よく考えれば、掛けなくて正解だったかもしれない。これを機に仲良くなれれば、なーんてね。むしろ、自己本位な考えで傷つけなくてよかった。私は名無しさんが話を聞いてくれるだけで十分です】
そこまで書くと、机の中にしまった。
下校後、予備校で講義を受けた蝶子は、百足を呼び出して龍弥のマンションに送迎してもらった。昨日あのまま、忘れ物をしてしまったからだ。
忘れ物を取りに行っていいか、と連絡をしていたが、龍弥からの返事は返ってきていなかった。
「どうしよう、百足さん。龍弥既読にならないや。行ってもいいのかなあ」
彼はハンドルを握りながら、蝶子をバックミラー越しに見つめると、困ったように笑った。それから少し考えるそぶりを見せると、百足はようやく口を開いた。
「今日会合があって、秋津会長多分機嫌が悪いんで……」
「……家に今は帰らない方がいいってこと?」
「まあ、そうなりやすねえ、はあ」
蝶子は父が苦手だった。高圧的な目つきと態度はもちろんだが、蝶子に対して露骨に倦厭な態度をとるのだ。とくに機嫌が悪い日はその特性が大きく出る。
――だからと言って龍弥の家が居心地いいわけじゃないんだけど……。
「ところで嬢ちゃん、昨日は大丈夫でしたかい」
「……最悪だったよ」
蝶子は昨日の出来事を思い出しながら、ぶんぶんと首を横に振った。
百足が何か察したように苦笑いをする。
彼女はプリウスから降りると、「お嬢」と百足が蝶子を呼びとめる。
「ええと今日自分遅番なんでね、なんかあったら迎え行きますから」
そう言った。
「ありがとう!」
蝶子は振り返って手を振ると、百足はぎこちなく手を振り返した。
エレベーターを待つ間、蝶子はふと考えた。この待ち時間が愛おしくなくなったのは一体いつからだろうか? と。
玄関ドアを開けた瞬間、蝶子は何やら奥が騒がしいのに気付く。
「俺は何も――……だ! 誤解だ……!」「黙れ。――だろうが、ああ!?」「……それはッ!!」
龍弥と誰かが言い争う声と、それからドタバタという騒音だ。
「龍弥? 何の音!?」
彼女が慌ててリビングルームに飛び込むと、真っ先に目に飛び込んできたのは、ちょうど何かを蹴り上げる彼の姿だった。
蝶子にとって、龍弥が誰かに暴行を加える様子を見るのは初めてのことではなかったが、今回は驚いてしまった。
蹂躙されている相手の男は、またも、透馬だったからだ。彼は黒っぽいスウェット姿で、また顔面に新しい打撲痕を増やし、こちらを見つめた。
再び蝶子の胸がちりちりと痛んだ。
彼女に気付いた透馬の目元が、切なそうに細められたからだ。
「よぉ、蝶子。面白いとこに来たじゃねえか、別に呼んでねーが」
龍弥は透馬の視線の先を追って蝶子に気付くと、下卑た笑い声と共に手招きした。
「そうだね。お取込み中みたいだし、じゃあ、帰るね」
口早にそう言うと、蝶子はなるべく透馬の方は見ないようにすると、踵を返す。しかし、廊下に数歩飛び出た瞬間だった。
「……ぐはああぁッ!!」
手負いの獣のような叫び声がし、彼女はビクッと背筋を凍らせた。
「待てよ、蝶子。せっかくだし遊んで帰れよ」
「……で、でも、私……忘れ物を取りに――」
「ああ? 言うことが聞けないのか?」
龍弥の一変した声音に、蝶子はゾクリと肌が粟だった。
「ほら、誰かが監視してねーと、お前のクラスメイトなのに殺してしまうかもしれないぞ」
クククっと彼の笑い声が響く。振り返ると、嗤う彼の背後で、透馬が腹部を抑えてのた打ち回っていた。白い大理石の床に、ぽたぽたと血が滴り落ちるのが見える。
蝶子が透馬の苦し気な横顔にくぎ付けになっていると、彼がチラリとこちらに顔を向けた。彼女はパッと反射的に目を逸らした。
そんな蝶子に龍弥はつかつかと近寄って来ると、怯えて縮み上がる彼女に笑いかけた。
それから彼女の顎を持ち上げると、その唇にキスを落とす。
「ま、待って龍弥、こんなところで……」
「あ? 何だ?」
再び凄まれて、蝶子は閉口する。彼女の胴回りに左腕が回され、ギュッと抱き寄せられた。
同級生の見ている手前で、蝶子は龍弥に深いキスをされる。その存在が気になり恐る恐る振り返ろうとするが、彼の右手でがっちりと顔が固定されていて動かせなかった。
後ろではフーッフーッと聞いたこともないような息遣いで、透馬が股を抑えて硬直している。
「りゅ、や……、待って」
ぎゅっと彼の胸板を押し返すと、龍弥の股間はすでに大きくなり、彼女の下腹で脈打っているのに気付く。
「何だ」
「山口くん、大丈夫なの。なんかすごく痛そうなんだけど」
「ああ? ばーか、お前の前でマスかくような男だぞ。興奮してんだよアイツは」
「……そんなこと」
「あるんだよ。……な、山口」
龍弥は透馬に向かってそう言うと、あの時のようにまた透馬に答えさせようとした。
「やめなよ……、分かったから……」
蝶子は龍弥を宥めるようにそう言うと、彼の機嫌を損ねないように手を握った。
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