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3
龍弥は蝶子の手を強く握り胸元に引き寄せると、その唇を肉を屠る獣のように喰らった。
「んんぅッ……」
クラスメイトの手前、蝶子は我慢していたが声が洩れだすのを堪えることが出来なかった。
龍弥はこの空間に透馬がいることを忘れているのではないか、というほどに昂らせていた。
はあ……、はあ……ッ――。
二人の吐息が何度絡み合っただろうか。
ようやく龍弥は、満足げな表情を浮かべると彼女を解放した。
龍弥の病的なほどのサディズムに蝶子が初めて気が付いたのは、彼と知らない誰かの濡場を見てしまった時だった。
女が、まるで犬のようにベッドに繋がれていた。大型犬用のチェーンの首輪とリード。龍弥はその犬の主のようにチェーンを引っ張り、跨っていた。四つん這いになった、彼女のキメ細やでしなやかな背中はしばらく脳裏から離れなかった。彼女の真っ白な背中は真っ赤に腫れており、蚯蚓腫れや打撲による腫れは臀部まで続いていた。ばんっばんっ! と彼が動くたびに肉同士のぶつかり合う音が不気味に響いていた。
『……え』
まるで小さな吐息のような、何とも情けない声を発すると、その瞬間肉音が止んだ。女が顔を横に向けぎろりと睨むのが見え、龍弥が振り向く前に、彼女は家を飛び出してしまった。
女の勝ち誇ったような視線と、蝶子がいくら頑張ろうとも到底勝てない彼女の美しさが、何度頭を振っても沸いてきて、蝶子は走りながら泣きじゃくった。
行く当てもなく、家の近くの公園のベンチで、蝶子は嗚咽した。龍弥が追いかけてくるはずもないのに、彼女は通行人が通るたびに泣き腫らした顔を上げた。
手元のスマホが震え、メッセージ。<くだらねーことでメソメソするな>の文字。
『……酷いよ』
蝶子は膝を抱えて再び泣いた。
パン! と一つ、龍弥が手を叩いたところで、再び現実に連れ戻され、蝶子と透馬は同時にびくりと肩を震わせた。
「じゃあ、昨日の続きでもするかあ? 山口。せっかく蝶子も来たんだしな」
透馬がハッとして腫れあがった顔を上げる。同時に蝶子が龍弥の一歩前に躍り出た。
「待って――」
「黒川は……、嫌がってんだろ」
止めに入ろうと口を開いた蝶子は、透馬の低い声に遮られる。彼女は慌てて口を噤み、代わりに目を丸くした。
「なんだと?」
「黒川は、嫌がってる。……そう言った」
龍弥の高圧的な返しに怯むことなく、透馬は静かに言った。
一瞬、しんと辺りが静まり返る。と途端、龍弥はゲラゲラと笑い始めた。
「お前自分の立場が分かっているのか? ハッ、分かってないようだな? ……あぁ!?」
呆れた顔で天を仰ぐと、龍弥は不気味に笑いながら、その拳を透馬の顔面に叩きつけた。一瞬で端正な顔を怒りで崩す。
透馬は反射的に両手をクロスさせて、顔を守ると、それが彼の逆鱗に触れた。「避けんな! ボケ!」と龍弥は巻き舌で怒鳴りつけ、さらに蹴りを二発加えた。
「は! だが、その気概は気に入ったわ」
腰を折り、地面に這いつくばる透馬を冷ややかな目で見降ろすと、龍弥は笑った。
「圧(へ)し折れるのを見せてくれよ」
そう言いながら彼が透馬の前にしゃがみこむのを見て、蝶子は冷や汗が噴き出る。
「ねぇ何するつもり……?」
わざとらしい笑みを浮かべ、俯く透馬の顔を覗き込む龍弥。彼に問いかける声が彼女の声が上擦る。
彼は「決まってんだろ」と答えた。
「いいよなぁ? 山口」
それから仰々しいほど優しくそう呼び掛けると、彼の人差し指をゆっくりと握った。
透馬が腫れあがった唇をきゅっと一文字に結ぶ。
「どーせマスかくくらいしか、使わねえだろうが。なぁ?」
蝶子は「山口くん!」と思わず叫んだ。
「ねぇ、どうして言いなりなの!?」
冷たい床に這いつくばったまま、再び俯いている彼を見つめる。返事を待つが、彼は何も言わない。
「やま――」
その瞬間、ぐあああああッ!! という断末魔の叫びが彼女の声を遮った。
「龍弥!?」
「おいおい、てめえの正義はそんなもんかよ」
透馬の右人差し指はぐにゃりとあらぬ方向に曲がっていた。それを庇うようにしていた左手を蹴り飛ばすと、今度は彼の中指に手を掛ける。
透馬は一瞬身を固めたが、またもや抵抗せずにギュッと目を閉じている。人差し指は内出血が始まっていた。痛々しい様子に、蝶子は俯く。
「こんなの……やり過ぎだよ」
「黙ってろ」
「でも――」
「しつこいぞ、蝶子」
その言葉に、蝶子は口を閉ざす。
「こんなのいつものやつに比べたら序ノ口だろう。いつも我関せずなくせに、今回は偉く庇うじゃねーか。どういう了見だ」
「山口くんは普通の人だと、思ったから……。今までの人たちとは違うんじゃないかって……」
「フン。……普通の人、か。本当にそうかな?」
そう言うと、龍弥は嘲るような笑いを浮かべた。
しかし、蝶子が怪訝に思い、「どういうこと?」と問い返しても、「さぁ?」と惚けるだけだった。
「萎えたな」
龍弥は盛大に舌打ちをすると、家畜のように透馬の臀部を蹴りつけた。
「さっさと立て」
「無理だよ。怪我してるし――」
龍弥は、彼女の言葉をわざとらしい溜息で遮る。
「秋津会長の運転手……。そう、百足だよ。アイツは人身事故起こしただろ。もう三年になるか? 示談になったのもその示談金が払えたのも誰のお陰だと思ってる?」
「……それは――」
「予備校代……。それから、ああ、教材費も……だったか。夏期講習も行きたいんだろう?」
蝶子は何も言えず、唇を噛み締めているのを確認すると、彼は満足げな様子で顔を覗き込んだ。
「そんな顔するな。お前が欲しいモンは全部くれてやる。な?」
蝶子がコクリと頷くと、龍弥は彼女の前髪をたくし上げ、それからその額にキスを落とした。
※
翌朝、蝶子は重い足取りで教室に入ると、再び床を見つめながら席に着いた。
そして、手癖のように机の中に手を入れ、手紙の返事を確認する。
【現状を打開したいように見受けられます。一歩踏み出すべきではないでしょうか。私はいつもあなたの味方です】
いつものワンフレーズな相槌ではなく、意外にちゃんとしたアドバイスの綴られた文章が来たことに蝶子は驚いた。
どうしよう、と思っているうちに、クラスの空気が一瞬変わるのを感じた。
透馬が、登校してきたのだ。
昨日と変わらず大きなマスクで顔の傷を隠しているが、今日は右手の人差し指の怪我が増えていた。
話しかける機会を探るために透馬を目で追うが、難しいように思えた。彼はすれ違うクラスメイトの眼差しを総取りしていたからだ。
皆が遠巻きで彼を盗み見る中、ここでも透馬の女神ともいえる繭子は周囲の目を憚らなかった。
「山口君、それ……大丈夫?」
蝶子がうじうじとしている間に、彼女はいとも自然に声を掛けていた。
彼の反応はいつものように、はにかむと、短い返事を返す。繭子は、その間髪の毛を何度も耳にかけながら、ああだこうだと彼に話しかけていた。
「あ、そうだ、待ってて」
蝶子は何かを取りに、自分の席に行った繭子を目で追う。
――すごいな。山田さん。
彼女の艶やかな黒い髪が靡くのを見つめながら、蝶子は素直にそう思った。休み時間、蝶子が寝ているフリをしていると、繭子の話をしているクラスの男子の話し声が良く聞こえて来た。彼女はクラスでもマドンナ的存在だった。
――二人は似合うなあ。
彼女らのやり取りを思い出しながら、蝶子は羨ましく思った。繭子は誰にでも分け隔てなく優しい。そして、昨日までの透馬を見るに、きっと彼も優しい人なのだろうと、蝶子は思った。
視線を透馬に戻した時、ちょうど同じくして後ろを振り返った彼と目が合った。
鋭い目元が、さらにキッと吊り上がるのが見える。昨日ちゃんと止めなかったことを怒っているのかもしれない、と思った蝶子は思わず教室を飛び出た。
廊下に出てさらに数歩歩いたところで、自己嫌悪感に潰れそうになる。
――何してるんだろう、私。
情けなくなり、居場所もないので、廊下の端に向かった。すると、そこで手首をパッと掴まれる。
振り返った彼女はギョッとした。図(はか)らずして小さく悲鳴を上げる。
「わりッ! 強くつかみ過ぎたか」
ばっと手を放して、小さく両手を上げたのは透馬だった。
「す、すみません……」
「何で黒川が謝んだよ」
彼はそう言ってふわりと笑った。彼の表情が優しくて、蝶子は頬を赤らめる。
「あ、あの……えーっと――」
蝶子は何度も頭の中でイメトレしたのにも関わらず、意味を持たない言葉を発しながら、つま先を見つめた。
彼女に気遣うように「あのさ」と彼が口を開いた。
「黒川は、あの後大丈夫だったか?」
「……え?」
彼女は彼の言葉に対し、思わず聞き返していた。
――心配してくれてるの? 私の? 何で?
「あ、いや、なんつーか……。様子が変だったから、気になってたんだ」
「え、なんで、私の……」
思いがけない言葉に、蝶子は頭が真っ白になる。
「俺のこと庇っちまって、あの後大丈夫だったかなって。……いや、何もねぇならいいんだ。巻き込んで悪いと思ってる」
「あ、私こそ、恥ずかしいところ見せちゃったな……」
彼女は足のつま先をじりじりと寄せるのを見つめながら言った。目が合わせられなかったのだ。
「ふはは。それ、そっちが言う?」
「あ、ごめんなさい……。何もできなくて、ごめんなさい……」
「黒川は誤解してる」
彼は彼女の話を言葉半ばで遮ると、気まずそうに言った。蝶子が顔を上げると、彼は慌てて目を逸らす。それから広い背中が小さくして、「俺は、自業自得だから」と続けた。
「黒川は俺のこと庇わなくていいから……。自分を大事にして」
「何があったの?」
「それは……」
彼が言いにくそうに目を泳がせたのを見て、蝶子は慌てて手を振った。
「言いたくなければ、無理には聞かない……。立ち入ったことを聞いちゃって、ごめんなさい」
「本当に、ごめんな。なるべく迷惑かけねぇようにするから……」
透馬はそう言って力なく笑うと、踵を返した。
その姿を見ながら、蝶子はいつの間にか、残念がっている自分の気持ちに気付く。
しかし、彼は「あ、それと……」と、何かを思い出したようにもう一度振り返った。
「昼休み少し話さねぇ? ここじゃあ、なんだし」
彼はそう言いながら、視線を横に逸らす。
「え?」
彼女の沈みかけていた気持ちが、ぱあっと明るくなる。
「あ……、でも――」
「アイツのことか?」
「私にかかわったら、また、ひどい目に遭わされるかも」
「あぁ、そう言うことかよ」
彼女の沈んだ声に反して、透馬は明るく答えると、ハハッと笑った。
「なんだよ、そんなの今更だっての。昨日と一昨日の俺、見ただろ?」
彼が自虐的に笑うとぼっこり腫れた上瞼が歪み、酷く痛々しく見えた。マスクの下は笑っているかもしれないが、きっと切れた唇や口角の傷があるに違いない。
だが、不思議と悲壮感はなかった。
「黒川はどうなんだ? 俺なんかと一緒にいるのは、……まあそりゃあ嫌か」
気まずそうに頬を掻く彼に、彼女はブンブンと首を横に激しく振った。
「私も! 山口くんと話してみたかった!」
「そっか、よかった」
小動物のように誘いに飛びついた彼女の様子がおかしかったのか、彼は吹き出すように笑った。
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