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 その日の午前中は、蝶子にとってはまるで夢現のようだった。いつもやっているように板書を取るため手を動かすが、まるで頭に入ってこない。  彼女は少し離れたところに座る、透馬の大きな広い背中を斜め後ろから見つめた。  白刃のように鋭い眼差しは真っ直ぐに前を見据えていた。  透馬が、左手で頭を掻くのが見える。短く刈り上げられたサイドと後ろ髪を触る彼の手の甲には、古い拳ダコがあった。  ――左利きなの?  蝶子は思わず透馬の手元を見たが、シャープペンシルを握る手は確かに右手だった。乱暴に手当てされた人差し指を浮かせながら書いていた。  ――あ、もしかして両利きなのかな……。 「――次、出席番号十五番。黒川」 「は、はい……!」  考え事をしていた彼女は先生に唐突に当てられ、声を上擦らせる。 「この問題の答え、わかるか?」  蝶子は途端に頭が真っ白になった。 「え、えーっと……」    その時、こちらを振り向く透馬と目が合う。  彼は人差し指を上げた。 「……一番、です」 「よし、正解。満点崩しの問題だったんだが、よくわかったな。さすがは黒川だ」  満足そうにしている先生を尻目に、再び透馬を見た。目元をキュッと細めると、微かに口角を上げているのが分かる。蝶子は両手を合わせて、「ありがとう」と唇を動かした。  昼休みになった。  蝶子が廊下に出るとすぐ、透馬が追いかけてくるのが見えた。 「山口くん、さっきはありがとう」 「大した事じゃねえよ」  彼は頭を掻きながら笑った。  意外な組み合わせに驚いたのか、すれ違うクラスメイトが二人を見て、視線を交しているのを蝶子は肌で感じる。 「いつもここで食べてるの?」  屋上へのドアを開けながら、蝶子は尋ねた。  気持ちよさそうな木漏れ日の下に出ると、透馬は「ああ」と言って笑った。 「誰も来ねぇし、結構オススメだぜ」 「確かに」  蝶子はスタスタと歩き、手すりに手をかけるとその下を覗いた。すると、ちょうど裏庭のベンチが見えた。 「あ、私がいつも食べてるとこが見える。私はいつもこのベンチで食べてるんだぁ」  真下を指さしながら言うと、彼女の隣りに立った透馬が「……あぁ」と言ってはにかんだ。 「知ってたの?」 「うん。ここからよく見えるし」    蝶子はその言葉に、思わず彼の顔を振り返った。目を細めて遠くを見つめる彼の横顔が、強張る。この時ようやく、この表情は照れているのだと気付いた。 「昼休みも毎日勉強してんのな、黒川って」 「え? ……うん。指定校で、決めたくて」  ――てか、見られてるの、全然、気付かなかった。  蝶子は顔が火照り出し、しどろもどろになった。彼女の動揺を察知した透馬が気まずそうに頭を掻く。 「何か、詮索してるみたいになったよな。ごめん」 「いや、全然! むしろ……」 「むしろ?」 「むしろ、その……、この学校で、私なんかのこと見てる人がいてくれたことに感謝してる……」  蝶子は俯きながら言った。 「何だよそりゃ」  彼はプッと吹き出してそう言うと、糸が切れた様に手すりに背中を沿わせて座り込む。 「何か、アレだな……。その……、黒川ってフツーの奴なんだな」  キョトンとする蝶子に、透馬は慌てて「いや!」と付け加える。 「何つーか……、別に悪い意味で言ったんじゃないんだぜ」  蝶子は彼の目を見つめると、黙って隣に座る。 「ゾクの娘は、案外普通だった?」 「……気、悪くした?」  透馬の表情があまりに申し訳なさそうに見えて、蝶子はくすっと笑った。その途端、彼の表情が安堵に変わる。 「……誉め言葉のつもりで言った。気に障ったなら、謝る。すまん」 「あはは! 謝り過ぎだよ! 別に何もそんなんで小指切り落としたり、山に捨てたりしないってば」    彼女がそう言うと、二人してクスクス笑った。 「山口くんも話しやすいよ。こんなに学校で誰かとお喋りしたの、初めてかも」 「……俺も。実はさ、中学の時も友達なんて言える奴、いなかったんだ。……まぁ、高校でもいねーけど。今、緊張で膝笑ってる」 「え、嘘だあ」 「本当だって!」  恥ずかしそうに笑う彼と、蝶子の目が合った。  すると、「……っ痛ぇ!」と彼は小さく叫び声を上げる。彼はマスクを外し、下唇と口角を指で拭うと、その指の腹に血が付いているのを確認していた。 「大丈夫?」  彼女は、急いでブレザーのポケットを確認した。「待って……」と、絆創膏を取り出す。そこで、蝶子は朝の山田さんと透馬のやり取りを思い出す。確か、彼女はあの時絆創膏を取りに行ったのではなかったか? あれからどうなったんだろう、とふと気になったのだ。  マスクを外した彼の顔が蝶子の目の前にある。鋭角的な顎とくっきりと浮かび上がった頬骨、それから引き締まった薄い唇に視線を這わせる。無数の傷と痣があるが、手当の痕はなかった。  その時蝶子に淪(さざなみ)のように押し寄せてきたのは優越感だった。  蝶子は慣れた様子で絆創膏を用意すると、血が滲んできている彼の口端に貼った。  細いアーモンド形のつり目が、バッチリと彼女の瞳を捉える。その瞬間、彼はまた目元をきつく尖らせると、ゆっくりと目を逸らした。  ほんの刹那的な出来事が、まるでその部分がトリミングされたように、蝶子の頭の中にこびり付く。そして、そこでふと浮かんだのは既視感だ。 「ありがと」 「……うん」  ――()()()()、初めてじゃない。  傷だらけの顔で蝶子に乞うような表情で自慰を見せた彼。彼の顔がずっと彼女の頭から離れなかった時に考えていた。こうして傷だらけの彼を見たのは初めてじゃないと。  彼女は入学式の日にも同じような気がしたのを覚えている。彼を目で追い過ぎて、目があってしまった時は慌てて目を逸らした。鋭い目元をナイフのように細め、口元を結んだ表情で、睨まれていたと思ったからだ。  当時歯を剥き出しにした野犬のようだった少年がこの高校にやってくるとは思えず、蝶子は尋ねることを思いとどまる。 「指、大丈夫? 書きづらくない?」  彼女は視界の端で彼の反応を見ながら尋ねた。 「あー、板書が少し書きづれぇくらいかな。ま、大丈夫」 「折れちゃった?」 「んー、わかんねえ。病院とか行かねえし……」  蝶子は驚く。 「どうして!? 治療費、貰いなよ! おかしいよ、そんなのって」 「大丈夫だって。喧嘩両成敗だろ?」  喧嘩と言う言葉に、蝶子は戸惑う。一方的な蹂躙、(ひしゃ)げた彼の指――昨日の状況を思い出し、「そんなのってないよ……」と呟いた。 「黒川、本当に俺は大丈夫だから。アイツが怒るのもしゃあなしなんだ……。それよか、黒川の方が心配だ。だから、あんまし俺の肩を持つなよ」  彼の真剣な顔つきに気圧され、蝶子は大人しく引き下がった。 「でも、今日本当に書きにくそうだった……」 「大丈夫大丈夫。慣れっこだから」 「あのさ、よかったら板書――」  「見せようか」と続けようとして、慌てて口を噤む。  透馬がすぐさま、「山田がくれるらしいからさ、板書」と、続けたからだ。  ――そっか、彼には山田さんが居るんだった……。  彼女なこっそりと赤面し、意気消沈消沈する。しかし、透馬は彼女が飲み込んだ言葉を目敏く拾い、ニヤリと反応した。 「え、くれんの? 黒川が?」 「っええ!? あ、う……うん。良ければ」 「ふーん。じゃあ、黒川に貰おっかな、ノート」 「え、いいの? ありがと!」 「それはこっちのセリフ」 「……あ、そっか」  蝶子は真っ赤になりながら照れ笑いを浮かべた。  こうして、彼と過ごす昼休みはあっという間に過ぎ去った。 「――あの授業分かりにくいよなぁ? 板書も見づれぇしよ、まともに聞いたことねーな。俺いっつも予習して、授業では前回の復習してる」 「山口くんも!? 私も、元々苦手で中学から数学は予備校通ってたんだけど、あの先生のせいで高校でも続けないといけなさそう……」  彼女の言葉に対し、彼が何かを言いかけたところでチャイムが鳴り響いた。 「明日も、ここ来て良い?」  唐突に口にした言葉を、蝶子は後悔した。  しかし、透馬は瞳を輝かせた。 「おう。昼休み勉強してぇなら、俺、数学と物理なら教えれっから。明日も、明後日も、明々後日も一緒に食おうぜ。な?」  彼女はコクコクと頷いた。  名無しさんとのやりとりのほかに、蝶子の細やかな楽しみが増えたのだった。  机に戻ると、手紙の返信は来ていなかった。   ※  蝶子は数学のノートを広げたままデスクから立ち上がる。それから、参考書を取ろうと背後の本棚に目をやった。可動式の本棚は蝶子専用のもので、この六畳程度の部屋も、龍弥の所有する一室にある彼女のための私室だ。    ――自分の居場所が出来たみたいで、嬉しかったなあ。  当時のことを振り返りながら、再び問題集を広げ、勉強を再開する。 「山口くんの言う通り、こう説くと早いなあ」  蝶子は自分の作った答案用紙を見ながら満足げに笑った。 「ふふ。一問で二十分割っちゃった」  少し経つと、「蝶子」と背後から声を掛けられる。  振り返ると、腕を組み、壁に背を預けた龍弥が笑っていた。 「偉くご機嫌じゃねぇの。鼻歌でも歌ってよ」  蝶子はハッとして顔を強張らせた。  彼女はすかさず、ひけらかすようにして化学の小テストの解答用紙を見せた。  クラスの順位として“2/30”と書いてある。クラスで二位と言うことだ。無論、一位は、山口透馬だ。これも、今日の昼休みに知ったことであるが、化学も得意だった。   「へぇ。じゃあ、ご褒美がいるなぁ」  龍弥は突き付けられた答案用紙をまじまじと見つめると、片方の眉を吊り上げて笑った。  よかった、と蝶子は思わず安堵した。どうやら彼の方も機嫌がいいらしかった。  彼は視線をずらし、蝶子を見つめると彼女の座る椅子を引いた。そして、彼女をお姫様を抱くように横抱きす。 「え、ちょっと! 何?」  そのまま寝室まで抱きかかえられ、蝶子は彼の首にしがみ付く。  「俺が奉仕してやると言ってるんだ。黙ってろ」  そう、耳元で囁いた。  彼は言葉通り、彼女を優しく抱擁するとベッドに降ろした。きっとこれを見たら、彼を囲う妾(セフレ)候補たちは、その扱いを見たらハンカチを嚙んで地団駄を踏むだろう、と蝶子は思った。  しかし、不思議と昼間繭子に対して抱いた優越感のようなものは湧かず、妙に冷静だった。  彼は、彼女の制服のスカートに手を入れ、下着をずらす。そして、股に顔を埋めた。そして、舌を入れて、熱のこもった息継ぎを繰り返しながら濡らしていく。 「あ……ッ! や、やだぁ」 「やじゃねえよな。こんなに濡らしやがって」    舌で陰核を押され、快楽で頭がいっぱいになり、んんっ喘ぐ。少し柔らかく、艶やかな灰色の彼の髪を手を当てる。  蝶子はふと、ツーブロックショートにした透馬を思い出した。真っ黒な彼の髪の毛は、直毛で硬そうだった。どんな手触りなんだろうか、と思った。  ――やだ、こんな時に何思い出してるんだろう。    蝶子は急に気持ちが冷め、慌てて目の前にある真っ白な背中に手を這わした。彼の背中が双頭の竜がいる。右の竜は彼の首を絞めている。左の竜は顔が、いや、正しくは龍弥の真っ白い肌が赤黒く溶けていた。  彼女は龍弥に集中しようと凸凹に隆起し、ケロイドになった皮膚を撫でた。びくりと彼は小さく爆ぜるように体を反応させる。  軽く爪を這わすように立てると、小さく息を吐きだした。プライドの高い彼は、女に喘いだりしないのだと思っていたが、彼女との行為で、唇を白くなるまで噛み締めて息をするのが、愛おしかった。 「蝶子……」  彼が彼女の名を呼びながら挿入した。  蝶子は彼の背中に手を回した。  彼の目を見つめながら、透馬の広くて逞しい肩周りを思い出していた。彼女が手を回しても届かないかもしれないと思った。 「クソッ! 我慢できねぇ。……はぁ、はぁ」  挿れるとほどなくして、彼は果てた。手早く抜き取ると、ティッシュに白濁液を飛ばす。  今、彼のいいところを一つ上げるとするならば、性行為が優しいというところだろう。まるで割れ物のように優しく扱い、処女のように丁寧に手ほどきを行う。  彼は()()が付くほどの病的なサディストだ。男だろうが女だろうが酷いときはボコボコに痛めつけながら勃起をする。そして、蝶子が怖がったり泣いたりするのも好きだった。  しかし、彼女との性行為ではレイプしたり折檻したりおろか、ソフトSMすらしたことがない。きっと蝶子にそう言った趣味はなかったからだろう。  そこだけは律儀に守る男だったが、きっとそれでは彼にとって物足りなかったのかもしれない。 「久々に良かった。良すぎてさきにいっちまったぜ」  そう言いながら、彼は濡らした秘部に指を入れると、蝶子の中を弄った。彼女の後頭部を手で支えながら、ゆっくりと押し倒す。そして、大きくはないがハリのある胸に唇を這わした。  しかし、蝶子は一向にいけなかった。  ――どうしよ……。  焦りが彼女の性欲を削いでいく。  やがて、アラームが鳴り、行為。途中だったが、ハッとして起き上がった。予備校の時間だった。 「おい、待てよ。まだ終わってねーだろ」 「ああ、別にいいよ。もう時間だから……。今日はとりあえず予備校行ってくるね」  乱れたシャツの襟を正しながら、ベッドを降りる。その拍子に、龍弥の表情が見えてずきりと心が痛んだ。  何とも形容しがたいような、これまで見たことのない表情をしていたからだ。  蝶子は罪悪感が出ないように、なるべく顔を見ずに部屋を出る。   ――今日送れたらマズイ。    今日は漢文の特講がある。そのまとめプリントが優秀なため、国語が苦手だという透馬に渡したかったのだ。   「へえ、そうか。俺との時間より、大事ということか?」  蝶子は、その言葉と表情に後ろ髪をガッと掴まれ、押し倒されそうな気分になった。しかし、聞こえないふりをして家を出た。
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