12人が本棚に入れています
本棚に追加
7
透馬は、ほんのりと肌寒い風が吹く春の夜空を仰いだ。灼けた背中と貫かれた臀部が、そよ吹く風の中でひしひしと痛んだ
「身の程なんて、とっくに弁えてんだ……」
彼は重い足取りでベンチに腰掛ける。ジョギングや犬の散歩をしている人たちが、目の前を過ぎ去った。
気付けばいつも、透馬はこの公園に足を運んでいた。
――黒川、何してっかなぁ。
腰かけているのは、蝶子がいつも座っていたベンチだ。彼女が泣いていたのは、いつもここだった。
透馬は遠くから、それを見ていた。
透馬も、度重なる凌辱とリンチの嵐の中、苦しい時は次第にここに足を運ぶようになっていた。こうして静かに目を閉じて、彼女の顔を思い浮かべるのだ。
山口透馬は非行少年だった。鑑別所でも特別な病名はつかなかった。対人関係を築くのが頗る苦手で、その上キレると激情が自己制御不能になる。さらに小学生の頃から既に体の大きかった透馬を止めることのできる人間は、大の男の大人を含めてもいなかった。
透馬には親しい友達もおらず、熱中するものもなかった。
教師や両親も幼いころから彼の扱いに困っていた。
中学一年生になったある日、仲裁に入った教師をボコボコに返り討ちにしてしまった。それがきっかけとなり、透馬が登校すると、空気がピリつくようになった。目が合うと、相手は捕食者に睨まれた被食者のように硬直する。彼が通る場所は、水を打ったように静まり返る。誰も何も言わないが、ここにいてはいけないと言われているような気がした透馬がやがて、不登校になるのは時間の問題だった。
カウンセリングなどの精神的支援も受けず、透馬は十二歳で夜の街に繰り出したのだった。
<いつも親切にしてくれてありがとう! こんな良い人と友達になれて幸せです!!>
メッセージアプリを開きながら、公園のベンチに腰を下ろした。スタンプと共に可愛くラッピングされたお菓子の写真が送られてきた。
<ってことで数学いつも教えてくれるお礼に、クッキー焼いたので明日持っていくねぇー!>
彼女のメッセージを見て、透馬の目頭が熱くなった。
優しい、良い人だ、と彼女に言われるたび、透馬は追い詰められたような気持ちになった。
『トーマ、お前の強み弱みがねぇところだな』
夜の街に繰り出してから数か月でその名を轟かせた透馬に、その時に目を掛けていた先輩の一人がそう言った。
『お前、相手を殺すのも自分が死ぬのも、怖くねえだろ』
その時透馬は彼の言葉に首を傾げた。
『じゃねえとこんなザマになんねえよ』
そう言って、彼は透馬の赤黒く変色して腫れた拳を指さして言った。
透馬の右の拳は、いつも剥離骨折していた。それでも喧嘩は売られるし、ムカつく人間は現れるから痛み止めを飲んで拳を振るっていた。それでも足りず、違法薬物に手を出したこともあった。彼の喧嘩を愉しむ輩は多く、タダで手に入った。
名前も知らないチームに所属させられ、万引きや喧嘩、強請りをやってお金を稼いだ。
もちろん今でこそやらないが、透馬にとって喫煙や飲酒は日常茶飯事だった。
そして、中学二年生になり、透馬は家族からも見放されることとなる。
きっかけは些細なことだった。
夜な夜な外出して家に帰って来ない両親に非行を咎められたのだ。タバコを捨てられ、スマートフォンを叩き割られた。たったそれだけで、透馬は父に馬乗りになり、いつもしているように暴力を振るった。母と姉が後ろから止めに入るが、二人にも手をあげた。壁に穴が開き、食器が割れた。
近所から通報され、鑑別所と少年院、そしてその後は施設送りとなった。
少年院から出た透馬は、すぐにまた夜の街で暴れまわった。
だが、所詮は半グレの域を出ない、ただの非行少年だった。
本物の悪というものを、透馬はまだ知らなかった。
「ってぇーなボウズ。しっかり前向いて歩け」
その日は透馬がチームを追放された日だった。チーム名はおろか、リーダーの名前も知らない透馬に、追放には何の未練もなかったが、過程が最悪だったのだ。
酒と薬で酔っぱらわせた後、チームの総兵力を上げて透馬を潰しに来たのだ。弛緩剤も打たれた透馬は成す術もなくボロ雑巾のように叩きのめされた。
薬の抜けきっていない透馬は、フラフラとしながらも、しかめっ面で新宿の繁華街を跋扈していたのだ。
アイツら殺してやる、と目だけは血走らせていた。
その時ちょうど、自分ほどの背丈もある、数回りも横幅のある大男にぶつかったのだ。
充血した目で大男を睨み上げると、隣のやせ型の男が、訛った口調で煽った。
「ギャハハッ!! 蛍原(ほとばら)さん、言い過ぎっすよぉ。もうチビってますやん。……おお? しかもコイツ、ロンパっとるやん」
彼のヘラヘラとした言動が、透馬の燻っていた敗北心に火をつけた。
凡そ堅気の男ではない連中に、普通の半グレならば、ヤバイという理性が働くだろう。
だが、頭のネジが数本足りない透馬に、セーフティバーなどない。彼は舌打ちすると、「死ねやデブ」と悪態を吐いた。
「ああ?」
振り返った男に対して、透馬はすかさず中指を立てて言った。
「死ねっつったんだよ、このデブ!!」
メキメキと青筋が立つ音が聞こえてきそうなほど、蛍原と呼ばれた男は眼力を強めた。
透馬は構えた。ボロボロの身体を憎しみで滾らせ向き直る。こめかみから血が滾り、アドレナリンが湧き出るのを感じた。
――来る!!
腹に蹴りか、はたまた拳が来るか、と、相手の視線を読みながら透馬は下腹部に力を入れた。
だが、彼が繰り出したのは黒いバトンのような物。
――まさかコイツ……。
透馬が気付いた時には遅かった。バチっと音がすると、体中に電撃のような痛みが走り、透馬の身体は痙攣した。
「バーカ。誰が喧嘩なんかするかよ。殴り合いじゃなくて、殺し合いを所望してんだろ?」
ただのスタンガンならば何度か当たったことはあるが、知っている痛みとはまるで違った。予想だにしない痛みに、声すら出ずに彼は地面に這いつくばった。鼻汁と唾液がアスファルトを濡らす。透馬はそれを見つめながら、体中の汗腺から汗が噴き出るのを感じていた。
その間も何度もバチバチと体中にスタンバトンを当てられた。
「これ、すげえな。クマでも倒せんじゃねえ? こいつも実質クマみてえなもんだ」
「……ありがとうございます」
蛍原が楽しそうに隣の中学生くらいの男と話しているのを最後に、透馬は気を失った。
次に目が覚めると、透馬はコンクリの上に寝ているのに気付く。手足は縛られていないのに、体が動かなかった。辛うじて荒い呼吸だけができる程度だ。しかし呼吸するだけであらゆるところが痛んだ。
「へぇ。まだそんな目、出来んのか」
ニッと笑った蛍原は、金色の歯並びを光らせると、透馬の顔面に拳を叩きつけた。
「お前、ムカつくんだよ」
起き上がろうとすると、蛍原に褒められていた銀髪の若い青年に取り押さえられる。
「汚い手で蛍原さんに触ろうとすんな」
「へ。……あんな武器思いつくなんて、やっぱ雑魚は頭の構造が違うな」
「く、クソガキッ!!」
透馬は銀髪の中坊を笑い飛ばした。
挑発に乗った彼が動けない透馬を袋たたきにする。
「意外とガッツあるっすね。コッカイの奴らっすかねぇ?」
二人のやり取りを見ていた訛り男が感心したような様子で笑っている。
「まあどっちでもいいさ。俺は今抜群に機嫌が悪ィんだわ。舐めてるやつはコッカイだろうがそうじゃなかろうが、ぶっ殺す。さぁて、何日もつかなぁ? ククク……」
「何日で命乞いするんやろかあ。この前のコッカイの奴はショボかったけんねえ」
そう言って楽しそうに笑った。
「なあ俺のこと、慰めてくれよなァ? 全身でよォ!」
蛍原は何度も顔面を蹴りつけた。
「やったら、足と手どっちから行きやす?」
訛り男の問いに、がはは! と、大声で蛍原は笑った。
「歯、だろ」
彼がそう言うや否や、二人の押さえつけられ、無理矢理口を開けさせられる。抵抗すると、ニッパーのようなもので殴りつけられた。舌が切れ、ドロッと口の中に血の味が広がり、透馬は血痰でむせた。
「お取込み中ごめんだけど、いい?」
この時透馬の目に飛び込んできたセーラー服姿の少女こそが、蝶子だったのだ。
緩い三つ編みに、短めの前髪。飾り気のないスクールバッグに、ひざ丈よりも少し上に上げたスカート。制服は着崩してもいないし、アレンジもない。
いかにもそこら辺の中学生、といった風貌だった。
「蝶子ぉー、来んなって言ったよなぁ」
「ごめん。ノックはしたよ? でも、塾の送り迎えして欲しくて」
蛍原はガンっと彼を床に打ち捨てる。まるで飽きた玩具を子供が放り投げるようだった。そのまま、つかつかと蝶子の方に向って行く。
「百足さんは?」
「人身事故で免停」
「まじですか? 知らんかったわ」
透馬を挟んで、残りの二人がコソコソと話していた。「アイツらか?」「いや、まさかそんな度胸は」などと言っている。
彼女の登場により、三人は完全に透馬から興味を失っていた。
「弱い者いじめばっかしてないでさぁ、ちょっと、今日だけ運転手になってよ。蛍原くん」
ちらっと、彼女がこちらを見た気がした。
「はぁ? いじめだぁ? コイツが生意気こいてるから、ちと可愛がってただけだよ」
「はいはい。ごめんねー」
彼女は蛍原の大きな背中の陰から顔を出した。透馬は咄嗟に擦れた視線を背けた。目が合った気がしたからだ。
「えー。でもなんかちょっと、初期の蛍原くんに似てる。……え、やだ、見れば見るほどそっくり。大物の予感?」
その瞬間、蛍原が蝶子の首に腕を回した。「いたっ!」と蝶子が叫ぶ。
キャハハと年相応の声で彼女は笑った。ひょいっと彼女を抱きかかえると、くすぐり出したのだ。
「ごめんごめん!」
「降参?」
「降参する」
その言葉を聞くと、彼は肩から彼女を降ろした。
今度こそ、はっきりと目が合った。いつも彼が向けられるような、敵意や加虐も、恐怖も畏怖もそこには籠っていない。代わりに初めて向けれる同情と哀憫(あいびん)の眼差しに胸がドキッとする。
ばっと彼から手を離すと、透馬に駆け寄る。
「おい! あぶねーぞ!! 寄んな」
「もう動けないでしょ、大丈夫だよ」
蛍原の制止を振り切った蝶子はバッグをガサゴソと漁る。彼女が手元に気をとられているのをいいことに、透馬は顔だけ向けて、彼女をじっと見つめた。
彼女は彼の視線には気付かず、消毒液やら絆創膏やらガーゼやらを取り出すことに集中している。ハンカチと共にビニール袋に詰めると目の前に置く。すると、ちらっとこちらを向いたので、再び慌てて目を逸らした。
胸がドギマギした。どっと、傷口から血が逆流しているような感じがする。
「もう、いいよね? 勘弁してあげよう。死んじゃう」
そう言うと、同意を求めるように彼らを見渡した。
「コッカイの奴だったら、どーするんすか」
銀髪男が言うと彼女は、「私は違うと思うな」と言った。
「ああ、そうだな。それに、俺ももう飽きて来てたとこ」
打って変わって蛍原は言った。
そして、くるっと振り返るや否や「行くぞー」と言って倉庫から出た。
そのあとを追うように、慌ただしく三人は透馬の元を去る。
二人になると、蝶子は目を輝かせて透馬を覗き込んだ。
「度胸、あるねぇ、キミ! 怖くなかった?」
透馬は答えなかった。
だが、彼女は続けた。
「ヤクザってね、怖いんだよ。今度からは、こういうのやめた方がいいと思う。マジで、死んじゃうよ」
「……別に、死んでも良かった」
彼女はその言葉にわざとらしく顔を顰めると、どうして? と尋ねた。
「……しょうもねえんだよ」
「キミが? それとも人生が?」
「……どっちも」
その答えに、ふーん、と相槌を打ちながら、彼女は透馬の手当てをした。手を振り解くこともできたが、なぜだか出来なかった。
「まあ、キミが死のうが生きようがどうでもいいけど、今日くらいは私に感謝して生きなさいよ」
そう言うと、蝶子は出血がひどい部分だけ応急処置をして腰を上げた。
「おい」
透馬はとっさに呼び留めていた。
「ん?」
彼女は振り向くが、透馬は今の気持ちを言葉にできずに押し黙った。
「なによー。ありがと、でしょ?」
蝶子にお礼を催促され、消え入るような声で透馬はぼそぼそと呟いた。
彼女は笑いかけるとその場を去った。
殴打され過ぎて薄ぼんやりと霞む視界に、彼女が置いていった袋が取り残される。
そして、処置の道具を出した時に一緒に滑り出た紺色のカバーが施された生徒手帳があった。
透馬はよろよろと手帳に手を伸ばすと、生徒手帳を開いた。彼女は黒川蝶子と言う名前で自分と同じ学年、秀才の集まる私立中学出身であることを知った。
最初のコメントを投稿しよう!