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8
ストーカー行為に及ぶ者の心理には、易怒性、社会的スキルの欠如、言語能力不足が挙げられるという。どの特徴も、当時の山口透馬に当てはまる傾向であった。
一般的な学者の見解的にも、彼が生徒手帳を拾ったことを皮切りにして、黒川蝶子の素性を嗅ぎまわるようになったのは何ら不思議なことではなかっただろう。
しかし、当時の透馬の保護司は嬉しそうに彼の様子を眺めていた。
「透馬君、趣味でもできたのかい?」
「あぁ?」
彼の言っている意味が分からず、透馬は肩眉を吊り上げて凄んだ。
「いや、いいんだ。言いたくなったら教えてくれ」
「何言ってんだか」
蝶子の通う中学で右往左往するのが日課になっていた透馬は、ネットで彼女の身元を調べて絶句した。
「まじかよ……」
彼女の名前の刺繍が入った白いハンカチと、生徒手帳を握る手が汗で滲んだ。
東京黒川組と言う名はネットで調べればどんどん出て来た。ちょうどその頃、沢海會の代表と盃を交した話と共に、近いうち正式にその傘下に入る可能性があるという報道が出回っていた時期だった。都内での半グレとの抗争に関する記事も見つけた。
ほぼ常習的に、暇さえあれば彼女の周りをうろついた。しかし、透馬はいつまで経っても彼女に落とし物を届けることが出来なかった。
「ちっ、ボンボンがよォ」
彼女を乗せた黒いプリウスを視界の端で捉えると、いつも必要以上に悪態を吐いた。
口下手な透馬は、何と声を掛けるべきか、といつも彼女のことを考えていたため、余計に腹がったのだ。
蝶子に抱く気持ちが大きく変わったのは、日の落ちたこの公園――そしてちょうどこのベンチで彼女を見かけたときだった。彼女の自宅から目と鼻の先にある、大きめの運動公園である。
その時の蝶子は一際彼の目を引いた。
これは透馬に限った話ではない。ジョギングやハイキングをしている人たちの視線も引き付けていた。皆、通りすがる瞬間に彼女を一瞥しながら通り過ぎていくのだ。
彼女の頬が腫れていた。三つ編みのお下げは、ぐちゃぐちゃに枝毛が出ている。カラッと晴れていたというのに上半身はびっしょりと濡れていた。そして、彼女は裸足だった。
透馬はその姿を遠くから見つめていた。
さらに、そのあとも何度か似た境遇に出くわした。
「アイツもあんな顔して泣くんだな……。いや、そりゃ泣きもするか」
気付けば、四六時中蝶子のことを考えるようになっていた。
ニイっと笑う悪戯気なアドケナイ顔(かんばせ)、ぎゅっと唇を真一文字に結んで堪える泣き顔、あの日確かに自分に向けて憐みの表情を浮かべた彼女……。それらを思い出しながら、彼は幾度となく生徒手帳の写真を指でなぞりながら、自慰をした。
「はぁ……はぁ……ぅッ」
射精した後、決まって透馬は酷い罪悪感に襲われた。
どうすればよかったのだろうか、なぜ泣いていたのだろうか。
「黒川蝶子……。俺に、何ができる?」
それから透馬は、どうすれば彼女に近づけるか考えるようになった。
例の公園のベンチで、透馬は学校に行った振りをするために時間を潰していた。
ちょうど目線の先に高校生と思しき男女が、腕を組みながら歩いているのが見える。同じデザインと色合いの制服……。
これだ! と、何かを思いついた透馬は、まだ放課後の時間帯ではないが、施設に駆け戻った。
途中で彼女の中学校に寄ると、彼は女学生に掴み掛かって蝶子の進路を聞き出した。
「確かなのか?」
「はっ、はい! 私たちのクラスは一貫生のクラスなので……」
「黒川には俺に会ったこと、言うなよ。言ったらコロス」
彼は、保護司に会うと、「高校に行く」と宣言した。
「最近君が楽しそうだと思った理由はこれだったんだね」
「勘違いすんな」
「ふふふ。理由は何であれ、いいことだ」
彼は二つ返事で透馬の決断を応援した。
彼の薦めや計らいで施設長と話をつけ、寄り付きもしなかった実家に二人で頭を下げに行った。
両親は、息子のあり得ない行動に実家は騒動になった。
「僕には何があったか分かりませんが、透馬君はここ数ヶ月で変わりました。どんな理由があれ、彼は未来のことを見据えています。空っぽだった彼は自分を埋めてくれる何かを見つけたんだと思います。以前とは絶対に違う、彼を信じてみませんか?」
保護司の言葉添えと説得もあり高校に通えることになった。
「警察沙汰の騒ぎを起こさないことが条件だ」
透馬の父はピシャリと言い放った。母親の方は一度も彼の目も見ようとはしなかった。姉は姿すら現さなかった。
そして、今日まで透馬はこれを守っている。
「いいかい? 君が歩き出すと決めた未来はまだ始まってもいない。ここで大事なのは、信じてくれた人の期待を裏切らないことだ。いいね?」
「ああ、分かってるよ」
この日から彼の日常は一変した。
凍てつく視線を浴びながら学校に真面目に通い、驚愕する教師を授業後に質問攻めにした。
蝶子を盗撮するのを辞めた。
彼女を拝むことが出来なくなると、彼女に出会った日のことが夢幻のように感じる。ハンカチと生徒手帳の存在だけが彼女とのことが現実である証だった。
虚しくなった日には彼女の写真をなぞった。
道端でカップルを見るたびに透馬は自己を投影させた。熱を帯びる下半身を、その写真で慰める日々が続いた。
「黒川蝶子、……待ってろ」
透馬は大きな手で生徒手帳を握ると、それを不器用な指遣いで丁寧に白いハンカチでくるんだ。
三年の冬には担任から志望校のレベル上げを打診されるほどの伸び具合だったが、蝶子の志望校を志願し続けた。
改心した彼を、最初は腫れもののように両親は扱った。姉はひとつ屋根の下にいるというのに、存在感を感じないほど出会わなかった。
だが、母は試験当日、「頑張んなさい」と彼に一言だけ言った。
そして、透馬は受かった。
合格を知った保護司は彼の右手を指さすと、「綺麗な拳になったな」と言った。
「右手は大事にしろよ。左手のタコは……、まあ見なかったことにしてやる」
そう言った。
後に透馬は、自分が特進クラスに配属されたこと、蝶子も同じクラスであることを知る。
初めて彼女と目が合った日、ハッと息を呑み、大きく目を見開いた表情を見て、透馬の心臓が高鳴った。
――もし、話しかけられたら……、その時は……。
鼻と耳にしていたピアスは取り、明るかった髪の毛も真っ黒に戻した。長髪気味だった襟足も、清楚感のあるショートとアップバングに変えた。制服はきちんと着用し、一般的な細さに眉も整えた。
当時の面影は全くと言っていいほど残していなかったため、気付かれなかったのかもしれないと透馬は思った。
明日は返そう、明日こそは……、と落とし物を握りしめる日が続いた。
春が終わり、夏になった。それでも、二人の距離は変わらないままだった。
夏休みになって、夏が明けた。
そして、夏休み明けに久しぶりに見た蝶子は、様子がおかしかった。
松葉杖をついていた彼女は、「交通事故に遭った」と説明していた。しかし、透馬だけはそうではないと確信していた。
彼女は学校は休みがちになり、授業も上の空の様子が多くなった。人を寄せ付け無くなり、クラスメイト達は彼女を遠巻きに見るようになった。
夏休みの模試の結果が帰って来た日の放課後、透馬は誰もいない教室のごみ箱の前に蝶子がいるのを見つけた。彼女が去った後、ゴミ箱の中にはぐちゃぐちゃに引き裂かれた模試の結果の用紙が捨ててあった。彼はそれを拾い上げると家に帰って綺麗にテープで止めた後、プレスした。
<東京大学理科二類 C判定>
この時期にしては悪くない、それどころかむしろいい結果だった。
透馬は彼女の行動の真意を知りたくなった。しかし、後をつけてみるも、行き帰りが車での送迎だった彼女の私生活は謎に包まれたままだった。結局例の運動公園で張り込むしか方法がなく、その行為は中学の頃と何ら変わらなかった。そしてあの頃と蝶子の様子も変わらなかった。
薄暗い東屋で教科書を取り出す蝶子、ベンチで横になってスマホを弄る蝶子、涙を拭う蝶子……。
しかし、あのころとは大きく違うことがあった。それは二人はクラスメイトであるという点だ。
こうして、透馬は彼女に匿名で板書を送ることにしたのである。名無しさんとしてやり取りをする原点は、ここから始まったのだった。
ある日、帰路につく彼に真っ白なセダンが横付けされた。
「オマエ、蝶子の何なんだ?」
声を掛けてきたのは、白く透き通る肌、目、鼻、口、眉に至るすべての顔立ちが端麗な男だった。
肌も白く、髪の毛も白っぽい色で、さらに真っ白なスーツを着ていたため、透馬は白い悪魔だと思った。
その白い悪魔は、愁眉を吊り上げて嗤っていた。
「鞄の中身を全部見せろ。それから……、スマホもな」
透馬はすぐに言うとおりにすると、両手を上げて降参のポーズをとった。
『ヤクザってね、怖いんだよ。今度からは、こういうのやめた方がいいと思う』
以前の透馬では考えられないほど素直に観念した。
しかし、龍弥はその懐に入ると、ギラギラと黒光りする革靴で透馬の鳩尾を蹴った。蹴ったというよりは切り裂いたに近い。彼はそれをもろに食らい、「げほッ、げほッ……」と咽ながら腰を折った。
さらに、ガタイのいい男が、横付けされた車から出てくると、無抵抗の透馬を両脇を抑えて組み伏せた。
そのまま車に詰められて、廃工場のようなところに連れ、動けなくなるまで二人の男に袋たたきにされる。
『マジで、死んじゃうよ』
今度こそ死ぬかもしれない、そう思った時、透馬の脳裏に彼女の顔が浮かんだ。
「へぇ随分と、俺の蝶子の大ファンだったんだな」
透馬のスマホを弄りながら、龍弥はせせら笑った。だが、その目は途轍もなく冷え切っていた。
「すみません、でした」
透馬が言うと、途端に彼は腹を抱えて笑い出した。
「床に寝そべったままで謝罪か?」
透馬は鉛のような体を激痛に呻きながら起こすと、四つん這いになった。
「……うぅッ、はあはあ。す、すみませんでした」
「はっ、誠意が見えねえな……あぁ!?」
目じりの涙を拭うと、透馬の頭を思い切り靴の裏で踏みつけた。
「ぐぁ……っ」
「なあとりあえず腹脱げや」
「……そんなッ」
「あ?」
「……くそ」
悪態を吐きながら全裸になった透馬を見下ろしながら、龍弥はせせら笑った。
「オマエ、こんなに写真撮ってただ眺めてた……なんて訳、ないよな?」
透馬はドキリとした。嫌な汗が全身から噴き出るのを感じた。
「ヤれよ。使ったんだろ? オカズに」
「……いったい何を言って――」
「自慰、に決まってんだろ? 今すぐいつも通りやってみろよ。ほら、お前の大好きな蝶子を使っていいぞ」
面白おかしそうに、彼は彼女の写真を画面にうつし、ひらひらとひけらかした。
「……なんだと!?」
ほぼ反射的に、拳を振り上げる。しかし、悪魔は囁いた。
「警察沙汰になったら、高校、行けなくなるんだろう? せっかく蝶子と同じクラスになれた。……それなのになぁ?」
その言葉に、透馬は拳を収めると奥歯をギリッと噛んだ。力のない陰茎を正座したまま慰めた。
少しずつ上を向き始めたソレに、あのハンカチを乗せられる。
カっと全身が熱くなり、こめかみに血管が浮くのが分かるようだった。
両脇の男の一人が「キチィ」というと、ゲラゲラと笑った。
しかし、この時はどうやってもイけなかった。
屈辱と怒りと羞恥で、頭がショートしそうだった。そんな彼にスマホを向けながら龍弥の回りの男らが「早くしろよ」と、急かす。
「おい、蝶子で抜けないなんて言うんじゃないだろうな?」
必死に手淫する彼の前髪を掴むと、龍弥は顔を覗き込んだ。
「てめぇにはこれから、永遠に地獄見せてやるよ」
悔しさで、透馬の目じりに涙が浮かんだ。
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