11人が本棚に入れています
本棚に追加
9
ちょうど同じころ、塾の講義から帰宅した蝶子は、玄関を開けるとすぐに棚に並ぶ靴に目をやった。
ベージュ色のシンプルなパンプスが踵を綺麗に揃えて並べてある。昔からこの家でハウスキーパーをやってくれている蜂須賀の靴だった。
時代が変わり、東京黒川組において部屋住制度はなくなった。しかし、当時使っていたプレハブや裏玄関、客間に塵一つ落ちていないのは、彼女のお陰である。
蝶子は広い家に彼女しかいないことを悟ると、廊下の床にドサッとスクールバッグを投げ捨てた。伽藍堂のような居間のソファに腰を下ろすと、すぐさまスマホを取り出す。
こうして自分の家でダラダラと過ごすのは久しぶりだった蝶子は、肩の荷が下りるような気がした。寝そべりながらスマホの画面をスクロールする。
通知音が鳴る毎に通知を確認し、ネットサーフをする。それからまたメッセージアプリを確認する。
「ふーん、男が好きなお菓子、ねぇ」
不意に声を掛けられ、蝶子はギョッとする。
「ふあっ! なに!」
「ごめんなさいね? 何度か呼び掛けたのですけど、お嬢が気付かれない様子だったので、つい」
振り返ると、蜂須賀がにこやかに笑っていた。目尻に皺が寄り、今でこそ物腰柔らかそうな初老感を醸し出しているが、小さなころは小うるさかったのを覚えている。
彼女は蝶子が物心つく前からここに従事しており、母のいない蝶子の母代わりだった。姉は正妻の、そして蝶子が妾の娘で、どちらも二人が小さなころに亡くなっていたため、二人の子守りも行っていた。
「え、まさかぁ! ただの友達で……」
「……男のご友人に、手作りお菓子ですか。へぇ」
蝶子はドキッとして慌ててスマホの画面を消す。だが、時すでに遅し、だ。蜂須賀の表情は悪戯な光を宿している。
「誤解されませんかねぇ? そんなもの、渡して」
「……ごめん、ただの友人っていうのは嘘……かも。あはは」
「あら、まあ。龍弥様はご存じの方なの?」
「ええ? んー、あはは」
苦笑しながら困惑した表情を隠そうとした蝶子に、蜂須賀は詰め寄った。
「まさか! クラスにお友達が!?」
「し、失礼な! 私だって友達の一人や二人……――」
「しかも男の子!?」
「ちょっと、き、聞いてってば……」
ごほん、と蜂須賀は咳ばらいをする。
「まあ……龍弥様も女友達、の一人二人やいますものね」
蜂須賀はほんの少しだけ顔を顰めた。
「女友達どころかセックスフレンドがいるわよ」
彼女の言葉に蜂須賀は今度こそ顔を歪めた。
目の前で、彼女が意味深な目つきで顔を覗き込むのが分かった。何か言葉を続けようとして口を開くが、蜂須賀はそれを制するように手を上げる。そのまま「お嬢ちゃま、こっち」と手招きした。
首を傾げる蝶子の腕を掴むと、台所の方に引っ張っていく。
「では、この蜂須賀が協力いたしましょ。キビキビいたしますよ。こっからはサビ残なんですから!」
かつてこの家で寄合があるときは稲荷寿司を百個作ったり、出所祝いの時にはケーキを作ってあげたりしていた彼女はさすがに手馴れていた。蜂須賀は「そうです、ここを持ってきゅうってまわして……」と、彼女に教えながら作業をする中、ものの一時間もしないうちに作業を終えた。
「すごい……! ありがとう、蜂須賀」
蝶子は小さく手を叩いて飛び跳ねた。
蜂須賀の顔が綻ぶ。
丸形に加えて星形にハート形に縁どられたクッキー……。蝶子はラッピングした後、スマホを取り出して写真に収めた。
「奪われた青春は、まだ取り返せますよ」
「何のことよ」
「ふふ。男性の友人に、ですものね」
「そうよ」
蝶子は含み笑いをする蜂須賀にきっぱりと言い放った。
蜂須賀が帰宅しても、彼女はそわそわと居間でスマホを確認した。どんどんと時間が溶けていくのを感じながら、蝶子はメッセージアプリを開いた。
彼女は先ほど撮った写真と共に透馬にメッセージを送った。
その時だった。
玄関の扉が開かれると、勢いよく誰かがこちらに来る音がした。一気に夢心地が冷め、サーっと血の気が引いていく。
嫌な予感がし、彼女はソファから飛び起きると急いで自室に向かおうとした。しかし、「蝶子!!」と叫ばれ、勢いよくその主に、突き飛ばされた。
「ふざけんなよ、このアバズレ!!」
勢いよく両膝を地に着いたせいで、キュッと膝頭が火傷する。両掌もジンジンとした。
恐る恐る後ろを振り返ると、姉の茜が鬼の形相で仁王立ちしているのが見える。目が合った瞬間、彼女は持っていたバッグを蝶子の顔面目掛けて、力いっぱい投げつけた。
とっさに顔を庇うが、ショルダーストラップが額に当たり、蝶子は「うぁっ!」と呻く。
「こんなんで痛がってんじゃないわよ、この役立たずクソビッチが! こちとらカード急に止められて、ホームステイ先から追い出されたのよ!? どういうことか、わかってるわよね!? ア、ン、タ、の、せ、い、よ!!」
姉は留学でイギリスにいたはずだった。
――もしかして……。
蝶子は、前回、龍弥の厚意を押し切って予備校に行ったのを思い出して青ざめた。
『後悔すんなよ』
あの時、酷く弱気な様子で吐いた、その言葉が繰り返し脳内に木霊した。
「でも、なんで……」
「なんで、ですって!? あのねえ、アンタ忘れたわけ!? 今回の短期留学は龍弥の伝手なの! 意味、分かるでしょ!?」
茜は目を引ん剝くと蝶子を引っ叩いた。
「龍弥に連絡したら、アンタが別れたがってるって。アンタマジで正気なの!? だから私への援助をする義理もないだろうって、あのクソ野郎!」
「ど、どうして私のせいなの……」
「はあ?」
茜は蝶子の髪の毛を引っ掴むと、地面に放り投げた。
「うぅ……」
蝶子は呻きながらスクールバックの近くに倒れ込む。その時、茜がその中身のある物に気付いた。
「は? 何これ」と彼女はバックの中身に手を伸ばした。
「だ、だめ!」
蝶子は必死の形相で茜の腕にしがみ付く。茜は冷酷な表情を浮かべ、彼女を蹴り飛ばす。それでも縋りついて止めに入る彼女の頬を力いっぱい殴りつけた。
「……はぁ?」
さっきクッキーの入った袋を片手に、彼女は静止した。
しん、と水を打ったような静けさの後、「山口くんって誰?」と半笑いの表情で蝶子に問いかける。
「違うの! それは関係ない! 龍弥が怒ったのは――」
「この期に及んでみっともない言い訳すんな、蝶子!! アンタってマジで懲りないのね!? この尻軽女が!」
怒号の後、彼女に下腹部を蹴られ、「や、やめて……」と呟きながら蹲る。
「んうッ……。違う……、聞いてよ。……お姉ちゃん」
蝶子の唇と口の中が切れ、むわっと血の味が広がる。
――明日、学校行けないかもな……。
蝶子はぼんやりとそう思いながらふと残念に思う自分に気付く。
「どうしてアンタはそうやってすぐに男に色目を使うわけ? アンタなんて母親同様、男の後ろに立って、黙って股開いとけばいいでしょ!?」
蝶子の目尻から涙が零れ落ちた。それを見た茜が、「はっ」と鼻で笑う。
「泣けばいいと思ってる? 私は騙されないから。蛍原の件で何も学ばなかった? 龍弥が冷たく当たるのはアンタの所為でしょうが!!」
蛍原の名前を出され、彼女はぽろぽろよ涙を流し始めた。
「……ごめんなさい」
よろよろ起き上がると、茜が「アンタが何とかしなさいよ」と言った。
「……はい」
彼女は涙を拭うと、バックを肩にかけ玄関へと向かった。
茜がちょうどクッキーをごみ箱に捨てているところを腫れた目で見つめながら、外に出た。
その時、自宅前でメタリックグレーな車が止まる。レクサスLSだった。蝶子は必要以上に俯く。助手席から父が神経質そうに顔を歪めたメタリックフレームの眼鏡男が出てきた。
父親が帰って来たのだ。
「こんな時間にどこへ行く」
「……友達の家に行くだけだよ」
「ふん。夜間に徘徊するような非行娘に育てた覚えはないがな」
「すぐ、帰ります……」
その後は父は何も言ってくることはなかった。しかし、堪れなくなった蝶子は、バッグを持ち直すと軽く頭を下げるとその場を後にした。
※
近くの運動公園で東屋にバックを降ろすと、蝶子はやっと息をすることが出来た。
ここは運動公園の中でも隅っこの方で、この時間だとほとんどだれも通りがからない。彼女の定位置のベンチだった。
人通りが少なく、明りも少ないここは、腫れた顔や、乱れた髪を隠してくれるのだ。
「ふう……。疲れたなあ」
天を仰ぐと、茜の言葉を思い出し、蝶子は再び憂鬱な気分に苛まれた。
スマホを握りしめ、これからどうするかを考えた。
ちょうどその時、手元のスマホがブブッと振動した。着信を知らせる画面に切り替わる。
「え、えええ!」
蝶子は思わず声を上げた。
一息つくと、「もしもし?」と応答する。
『黒川? 急にごめん。用あって、近くに来たから……会えねぇかなって』
ハッとして蝶子は、髪の毛を手櫛で整える。
「え? 今!? ……あ、うん!」
何とか返事をするが、手鏡を出して彼女は愕然とした。
鏡に映る自分の姿は酷いものだった。目は泣きすぎて腫れぼったく、真っ赤に充血している。右頬も近くで見れば明らかに腫れていると分かるし、さらに下唇が切れ、血が滲んでいた。
――こんな顔で会えるわけないじゃん……。
「あ、……ごめん。やっぱ……無理かも。この後用事が――」
蝶子は真っ白になる頭の中で、必死に次に繋ぐ言い訳を考えた。
しかし、その時だった。
「え?」
電話口の彼の言葉に、蝶子はばっと振り向く。
周りをきょろきょろとせわしなく見回した。
垣根を挟んだ向こう側の路で、電話を耳に当てた大きなシルエットが見える。
『……もう、来ちまった』
その時、電話口と目の前の透馬の声が重なって蝶子の耳に流れてきた。
「山口くん、なんで……」
蝶子は、勢いよく立ち上がる。それから、彼を大きな瞳で見つめた。
少し恥ずかしそうに目を細め、それから優しくはにかむ彼と、視線がかち合う。
その表情に絆され、その瞬間、彼女の目から大粒の涙が溢れた。
最初のコメントを投稿しよう!