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 蝶子(ちょうこ)は、スマホの通知欄を見て思わずため息をついた。メッセージ欄には<面白いもの見せてやる。俺の部屋に寄れ。>の文字。龍弥(りゅうや)からのだった。  彼女は一瞬顔を曇らせると、そそくさと帰りの準備を続ける。すると、机の中から先ほどまではなかったものの感触が指先を伝わった。引っ張り出すと一枚のクリアファイルだった。  それを見た彼女の表情にふと笑みが灯る。  <先週休んでいた分の板書です。お大事に>  ファイルには労いの言葉が綴られた付箋が張ってある。この送り主不明の手紙は蝶子の細やかな心の支えだった。  送り主の書く字はいつ見ても、丁寧にしたためてあった。一文字一文字の()()()()()()()のどれ一つとっても美しい字だったのである。  彼女は、荷物を置いて再び机に座ると、返事を書いた。返事はいつも、『頑張れ』とか、『大変だったね』とか、たった一言二言である。しかし、彼女はいつもルーズリーフいっぱいにぎっしりと書く。自分の私生活にまで話題の枝を伸ばしたことはない。それでも、この他愛のないやりとりが彼女にとって、いつしか掛け替えのないものになっていた。  こうして自分の机の上に返事を書いて置いておくと、いつの間にか無くなっている。  どんな相手か興味を持った彼女が、何度か朝早く来てみたり、遅くまで残って張ってみたりして張ってみたことも会った。しかし、その時は決まって返事が来なくなる。それが悲しくて、彼女は送り主を詮索するのはやめた。  女性的で流麗な字体、恐らく相手は女生徒であろうか。  入学当初から気さくに話しかけてくれたほんわかしているバレー部の鈴木か、そこら辺の仲良し一派、それとも誰にでも分け隔てなく声を掛けてくれる才色兼備の山田であろうか。  以外にも男子生徒である可能性もあれば、クラスメイトではない可能性もある。  蝶子は名無しさん、と呼んで、顔の分からぬ文通相手に思いを馳せた。 「お帰りなさい、お嬢」  校門を出て、三分ほど歩いたところだった。蝶子は自分を呼ぶ声に足を止める。真っ黒なプリウスが彼女のすぐそばに横付けされると、運転席に座る百足(ももたり)がドアを開け、彼女を乗せた。 「今日はご予定は?」 「帰宅かな。……あっ、でも、龍弥からお呼び出しが掛かったんだった」  彼女がスマホを片手に、鼻白んだような表情を作った。ルームミラー越しに運転手が苦笑いしているのが見える。びっちりと黒髪をオールバックに固めた運転手は、その筋の人間にしか見えない。 「私たちって恋人なのにね? 呼び出されたときしか会えなくて、呼び出されたら行かなくちゃいけないのって変よね」 「まったくです。参りますねぇ。黒川も舐められたもんだ。カッカッカッ」  彼は演技じみた様子で大口を開けて笑った。それから大袈裟にため息をつくと彼女の方をチラと見て、「お嬢のせいじゃあ、ありませんよ」と付け加えた。 「……はあ」    百足の様子を見ながら、彼女は相槌ともため息ともつかない声を上げた。  彼女が握らされている手綱は、東京(とうきょう)黒川(くろかわ)組の命運ともいえた。かつての東京黒川組は江戸時代から続き、一時は一本独鈷で関東全域をシマとしていた時代もあった。しかし現在はわずか十数程度の構成員しかおらず、世間の暴力団排除の波に吞まれつつある。  さらにシマには半グレのチームが乱立。東京黒川組はかつての一本独鈷ではもう手に負えなくなっていた。そこで、一家の総長である黒川秋津(あきつ)はもともと交友のあった沢海會代表の真鳳(まさたか)に頼ることにした。真鳳は東京黒川組の傘下入りを破格すぎる条件で快諾した。  そして、真鳳は何かの考えあってか、自身の養子にあたる沢海龍弥に長女の茜か二女の蝶子を沢海家に嫁がせるよう要求したという。  すべてが蝶子の知らない場所で行われたやりとりで、気付いた時には結納の日になっていた。 『うちの愚女にこんな使い道があるとは』  結納の場で、父の軽口が気にならないほどには、彼女はのぼせあがっていた。何せ、あの浮き名を馳せた容姿端麗な龍弥が、姉の茜には目もくれず、蝶子を嫁に、と言ったからだ。  茜は平凡な蝶子とは対照的で、華やかな外見と抜群なスタイルで、そして何より秋津の正妻の娘であった。そのため、龍弥のこの決断は当初、関係者をざわつかせた。  しかし、既に龍弥はこの頃から若頭補佐に名が挙がっているほどに立場があり、発言権もあった。異を唱える者はいなかった。  実のところ、物心ついた時から龍弥にほの字だったのは、蝶子の方だった。当時は浮足立っていた。  だが今の蝶子は、なぜ茜ではなく自分を選んだのか、彼の打算的な何かが透けて分かる気がしている。 「……いいや、私が悪いんだ」 「なんです?」 「ううん、独り言」  蝶子の声は、百足には届かなかった。  彼女は自宅に戻って、真っすぐ机に向かった。明日の小テストの勉強をして時間を潰すと、身支度を整える。  着替える拍子に箪笥の上に置いてある写真立てを落とし、慌てて彼女は拾い上げる。  真っ白に雪の積もった自宅の玄関を背景に、振り袖姿の蝶子と真っ白のスーツに身を包んだ龍弥が並んでいる写真。 「私、こんな顔で笑ってたんだ」     隣に映る龍弥の顔を見て、蝶子はふと泣きそうになった。 「龍弥、この時こんな顔で私のこと見てたんだ……」     彼女はそっと写真立てをもとあったところに戻すと、急いで自宅に併設されている事務所に向かう。目頭が熱くなるのを慌てて抑えて百足にバレないようにした。  龍弥の自宅マンションは徒歩圏内ではあるにもかかわらず、車での送迎が徹底されていた。沢海會常任理事であり東京黒川組若頭である百足か、その部下(テカ)必ず付く。彼は上の立場になってから、現場仕事は減り、デスクワークの日々を送っていたため、車を運転するのは少し楽しそうだった。 「昔の坊ちゃんは何かこう、もっとアレでしたよねぇ。俺はお嬢みたいに学が無いですけぇ、上手く言えませんけどね」 「……別にハッキリ言っていいよ」  彼女の言葉に対し、百足が何か言いかけたが一度口を噤む。それから困ったように笑った。 「……っと、相変わらずいいとこ住んでんなぁ、坊ちゃんは」  四十七階建てのタワーマンションを眩しそうに眺めながら、百足は運転席の窓を開ける。その声は二トーン声音を上がっていた。  助手席のドアを開けて、蝶子に手を差し伸べると再び苦笑いした。 「帰るとき連絡する」 「頼みますよ、俺が坊ちゃんに怒られるんですから」  その言葉に彼女はべっと舌を出して、笑った。  忘れ物に気付き、彼の部屋に急いで戻ると知らない女と情事を重ねている龍弥がいたのは、先週のことだったか。ラウンジやキャバクラなどで着るような煌びやかなドレスが、まるで蝶子に見せつけるかのようにリビングに脱ぎ捨てられていた。彼の寝室に入るや否や重い教科書の入ったバッグを投げ捨てて飛び出してしまった。  冷静にバッグを叩きつけることが出来たのも、こういうのは二回目だったからかもしれない。  今思い出しても心臓が抉られるような思いがした。  ふう、と一息ついて合鍵のカードキーを差し込み、中に入る。 「よう、待ってたぜ」 「ねぇ、何? ホント、グロイのとかだけは勘弁してほしいんだけど……」 「んん、そうだな。グロくはない、かもな」  彼は嬉しそうに笑った。  彼の明るい表情とは裏腹に、彼女の顔は曇った。彼がとんでもないサディストであるのに今も昔も変わりはない。しかし、昔はもっと蝶子を尊重していたように思う。百足の言う通り、龍弥は変わってしまったのだ。  嫌がる彼女をさも愉快な眼差しで見つめるその瞳は熱を持っていた。  いつものように踏ん切りをつけ、重い足取りでリビングに向かう。そして、扉を開いた蝶子は、ドンっと尻もちをついた。  大理石の床の上で、ポツンと男が膝を付いている。最初、彫刻かと思うほどであった。なぜなら、全裸で、全身の筋肉を盛り上げ、静止していたからだ。これだけでは腰を抜かしたりしない。問題は、その人物だ。 「……うそ。山口(やまぐち)……くん……?」  絞り出すような彼女の声に、男はハッとして手を股の位置から放した。  その様子を見て、ぎくりとする。  離した右手は、陰茎を握っていた。  恐らく自慰をしていたからだ。  少し浅黒い日焼けした肌、短く刈り揃えられた髪、大きな背中、鋭い目つき……。  やはり彼は、クラスメイトの山口透馬(とうま)だった。  彼と彼女の間に全くと言っていいほど、接点はない。しかし、彼もまたクラスで浮いており、一方的に妙な親近感を感じていた。そんな蝶子が、彼を見間違うはずはなかった。  都内でトップクラスの進学校で、透馬のようなまるで不良上がりのようないでたちは異質だった。それに、顔に傷跡や打撲痕をつけて登校することも多々あり、彼が喧嘩っ早く恐ろしい人間なのではないかという噂は実まことしやかに囁かれていた。  アップバングの短髪、眉はいつも細め。髪の毛も黒で制服も着崩していないのに、進学校の学生には無いような、人を寄せ付けないピリついた雰囲気を常に醸し出していた。そして言葉数は少なく、いつもしかめっ面で、高圧的な視線が印象的だった。三白眼がさらに酷く、彼の人相を悪くした。  彼女は彼の着痩せ具合に驚いた。運動部どころか、部活や同好会に積極的に参加している様子はなかったのに、体は筋骨隆々に鍛え上げられている。喧嘩の噂は本当だったのかもしれない、と彼女は思った。 「手、止めるなよ。見てもらいたいんだろ。蝶子に」  龍弥が眉間に皺を寄せてそう言い放つと、目を伏せたまま透馬は顔を顰めた。催促するように小突かれ、再び、自慰に耽る。 「だんまりかよ? あぁ!?」    龍弥は巻き舌で怒鳴りつけるが、透馬は竦む様子もなく陰茎を扱いた。無視をされたのが気に食わなかったのか、透馬を再び怒鳴りつけると、今度は顔面に膝蹴りを入れた。 「なぁ? ヘンタイ、聞こえてるか?」 「……あぁ。聞こえてる」  ぽとぽとと鼻血が落ちてくるのが見える。それにも構わず、彼は顔色も声音も変えなかった。  よく見ると、彼の逞しい全身は擦り傷と打撲の痕だらけだった。火傷のような傷もある。生々しい赤黒い痣と傷口に、彼女は思わず目を逸らす。 「何で山口くんがいるの!? 嫌だ。私は別にこんなの見たくない」  なおも振りかぶって殴ろうとする龍弥を見ながら、蝶子は叫んだ。  すると、彼はせせら笑った。 「じゃあ山口は、一生、このままここで放置だな」 「どういうこと!? 意味わかんない! ちゃんとわかるように説明してよ!」 「お前が自分で説明しろ、なぁ?」  彼女の問いかけには答えず、透馬の口から言わせようとする。 「なんでだ? あぁ?」  龍弥が畳みかける。 「俺が……、へ、ヘンタイだから……」 「だよなあ、山口。どう変態なんだったか?」 「それは……」    ここにきて初めて、透馬は言い淀んだ。全身の筋肉を硬直させ、唇を噛んでいる。 「言えないのか?」 「……くっ。……はい」  悔しそうに顔を歪める彼に対し、龍弥は腹が捩れるほど笑った。言えないそうだ、と、彼女に向かって言った。  蝶子は顔を顰めた。   「まあ、せっかく蝶子が来たんだ。もっと近くで見てもらえ」 「……くそっ」  透馬は小さく悪態を吐くと、すくっと立ち上がる。彼がいたところに、先走りだけで小さな水たまりができていた。 「いいか、さっき教えた通りの方法で誠意見せろ。両膝ついて、なあ」     蝶子はギョッとして思わず後ずさりする。彼は父の組にいる若中たちに負けず劣らずの強面で、さらに身長も百八十以上はある。一五〇センチ程度の彼女は、彼がちょっとした手違い、あるいは変な気でも起こされたら、一発ノックアウトだろう。  彼女はじりじりと壁際に追い詰められ、やがて壁に手を突く。  彼の背後で、龍弥がニタニタと笑っている。「ビビんなよ、蝶子」と彼は続けた。 「ソイツは絶対にお前には手出さねーよ」  そう言いながら、腹を抱えて笑っている。 「少しでも蝶子に触れてみろ、殺してやるさ」  いまの状況に対して、不快感と恐怖感のあまりぎゅっと目を瞑る。  だが、そのあと意外なことが起こった。 「ごめん、黒川。こんなこと、すぐ終わらせっから……」  それは、声を潜めた透馬の声だった。その優しい声に、蝶子は恐る恐る目を開ける。グロテスクな形をした一物が目の前にあるにもかかわらず、彼女の恐怖心は半減した。  目を細めて力なく笑う彼の顔が視界の真ん前にあった。その表情が心底申し訳なさそうに見えた。  透馬は龍弥に言われた通りに両膝を突くと、小さく声を洩らしながら陰茎を持った手を動かした。ちっとも気持ちよさそうではなく、額と眉間に皺を寄せ、苦しそうだった。  鬱血した逸物を擦りながら、彼が吐息を洩らすのを感じる距離になる。あまりに近すぎて、彼の顔は見えない。そのはずなのに熱い視線を肌で感じるほどだった。  やがて、彼はビクンと体を震わせると、「はぁ……ッ」と、吐息を吐いて果てた。  彼は射精する瞬間に射精物が、彼女の足元にかからないように方向を変えたのが分かった。  陰茎から精子を吐き出すと、透馬は右手を地に着いた。それから、はあ、はあ、と浅く肩で息をした。 「怖がらせて……、悪かった」    もう一度、龍弥には聴こえないくらいの声の大きさで彼は謝った。  彼女の心臓は高鳴り、それは彼にこの鼓動が聞かれるのではないかと思うほどだった。
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