群青と紫

2/2
前へ
/2ページ
次へ
私の観念は現実の視点を失い、過去の記憶を辿る。それは鮮明に、明瞭に脳内に浮かび上がる。不規則に、時系列もぐちゃぐちゃに意識が飛び回る。その間、声を何度も聞いた。犬の声だ。その声の主は、私を温かく、懐かしく、そして寂しい気持ちにさせる。かつて飼っていた優太だ。人間っぽい名前にしたのは、母親が、そのほうが愛着が湧くし、家族として愛せると熱弁を振るったからだ。母親の、愛したいという気持ちを感じた。寒い冬の家でのことだった。生後間も無い子犬をペットショップで見つけ、全員一致でその犬に決め、そして家まで連れてきた日のことだ。母は黄色いセーターを着て、ブルージーンズを履き、いつものごとく丸眼鏡を掛けていた。優しい顔立ちの母は時折厳しい一面も見せるが、それでも私は好きだった。  父親も、母の命名案に賛成だった。高く頑丈な背で腕組みしながら名前を思案していた父は、母の提案にピンと来たらしく、強く頷いた。やや鼻が高く二枚目だが、少し強面の、それでも本当は根がとにかく優しい父だった。父も、私は好きだった。  一人娘の私だけが、二人の提案に反対だった。私はもっと、単純でかわいい名前にしたかったのだ。毛が茶色っぽいから「麦茶」とか、目がくりくりだから「くり」だの「くりきち」とか、そんな具合に(私のネーミングセンスの無さは置いといて欲しいものだ)。  結局二人の案をしぶしぶ飲み込んだ私は、次第に名前に、そして優太自身に、愛着が湧くようになった。  何度も名前を呼んだ。何度も反応をくれた。賢い犬で、簡単な、いつも使う単語なら、理解できるらしい。例えば、「ご飯だよ〜優太」と言えば尻尾を振って涎を垂らすし、「ほら、散歩行くよ」と言えば目を輝かせてついてきた。逆に、「ほら、帰るよ」と言うと、いつも切なそうな表情になった。  私達は何度も遊んだ。何度も目を合わせた。数え切れないほどの時間を過ごし、覚え切れないほどの思い出をくれた。私達はたくさんの愛情を注ぎ、そして返して貰った。幸せだった。泣いている時も、心配そうな顔で寄ってきてくれるし、笑っている時は、優太も楽しそうだった。冬の寒い日も、夏の暑い日も、二人で乗り越えた。優太は、私に一番良く懐いてくれた。  優太が失踪した時、私の心は死んだ。寒さの厳しい冬の二月だった。結局、その日の深夜には見つかったが、その日の私は気が気じゃ無かった。朝から晩まで探した。朝から晩まで泣いた。朝から晩まで叫んだ。心はずうっと曇っていた。  優太は森にいた。月が新月として姿を隠していた深夜、繁みの中で優太はひっそりと泣いていた。訳を聞いても、力なく「くうん」と鳴くばかりだった。仕方なく、持ってきた彼の大好物のほうれん草をたんまりと食べさせた。家に帰ってきた時の、父親と母親の緊張が解け安堵した顔。まだ高校生だった私が、ここまで心細い気持ちになるのは初めてだった。  それが、現在から約一ヶ月前のことだ。 夜は深まっていく。静寂の森は一層沈黙を深め、影を落とし、その密度を増していく。それに比例して、満月の煌々しい光は木々の間に光と、そして影を落とし、地面に陰影をつけている。虫の声も聞こえぬ辺りに、どさり、という硬い音が響く。  僕は彼女が手に持っているバケツめがけて口を突っ込んだ。中にはほうれん草が入っている。それは柔らかい音をしてしなる。牙を光らせて力強く噛むと、勢いよくバケツから顔を出した。  途端。彼女の顔が露わになる。彼女は後ろへ背中から倒れた反動で、後方へ五十センチほど後退する。一度地面からバウンドし、そして落ちる。彼女の肩から上が光のもとへ晒される。木々の間を照らす、月光が顔に当たる。それは確かに、僕の飼い主であった可菜の顔だった。長い睫をした瞳が開かれる。そして僕を見る。 僕は思わず口に咥えていたほうれん草を彼女の胸元に落としてしまう。そして、あの時の感情が蘇る。  笑っている可菜。泣いている可菜。怒っている可菜。切なげな可菜。淋しげな肩。温かい家庭。  すべて忘れようと努め、孤独を飼い慣らしてきた。けれど、駄目だ。可菜の顔を見ただけで、全てが蘇ってしまう。  僕は一ヶ月前、ほんの気まぐれで、家のすぐ近くにある森へ出かけた。僕は外飼いできる限り犬小屋にリードを繋いであったけど、たまたまその日は繋ぐのを忘れていたみたいで、外に出られた。すぐに戻るつもりだった。道は前日に降った雪が積もったせいで歩きづらかったけど、サクサクと音を鳴らして進むのは楽しかった。道の途中家の前の道路を雪掻きしていたおじさんに頭を撫でてくれた。  「おまえ、どこの犬だ?首輪つけてるみたいだけど、どこに行くんだ?」  僕は大体人の言葉は分かる。おおよその意図や感情も分かる。それでも僕はおじさんの言葉を無視し、歩いた。  森に着く。そこはどこまでも広く、寛容的でありながら、排他的でもあった。木々が密集する集合体からは動物や昆虫の匂いと気配を感じ取った。僕はどんどん奥へと進んでいく。枝を踏む時のパキッという音。遠くから聞こえる川のせせらぎ。光と影。好奇心が僕を刺激する。研ぎ澄まされる野生の五感。  僕は野犬を見た。その犬は、足を怪我しているみたいだった。僕と同じ茶色い毛並みをした中型犬だった。メスだ。木の幹の側で僕の方をじっと見ていた。悲しく、切実な目線だ。僕はその子のために、食べ物をとってきては、彼女にやった。僕は何も食べなかった。ただ、彼女が、これまで長い時間何も口にしていなかったらしく、勢いよく餌に食い付く姿を眺めていただけだ。  そうして夜になった。また僕は餌を口に咥えては彼女のいた木の幹に行った。しかしそこには彼女の姿は無かった。わからなかった。どこへ行ったのか、何故行ったのか。途方に暮れて、繁みで泣いた。そこを、可菜に見つけてもらった。可菜は泣いていた。  それから三日後、僕は犬小屋から脱走した。繋いであったリードは噛み千切った。走った。雪解けの路面に時折足を取られながらも、走った。もう、僕をたくさん愛してくれた宮野家には、帰らないつもりだった。いくつもの思い出が頭に浮かんでは、振り払った。彼女が、気が気じゃなかったのだ。どうしても心配だった。もう一度、彼女に会いたかった。  僕は、彼女に恋をしていた。  道中雪掻きをしていた例のおじさんを見つけた。彼は僕に向かって何かを言っていたが、頭に入らなかった。  彼女を見つけるのに、丸二日かかった。息も絶え絶え、僕は、繁みで倒れて衰弱し切った彼女を発見した。体は以前よりやせ細り、あばらが浮き出ていた。初めて会った木の幹とは、ずいぶん離れていた。しかしそこは、僕がお世話になった宮野家に近付いた所だった。  僕は急いで食べ物を探して与え、近くを流れる川へなんとか連れていき、水を飲ませた。そして少し回復したらしい彼女は、僕に、数日前どうしていなくなったのかを教えてくれた。  彼女は僕のためにいなくなったのだと言った。彼女は自分ばかりが食べ物を食べ、僕が何も食べないんでは、いずれ僕が死んでしまう。だから、なんとかその場から離れ、雪で全身の匂いを消したのだと言った。  そんなことは気にして欲しく無かった。現に、僕は今君のために丸二日と探し回ったのだから。それを彼女に伝えると、彼女は泣いた。ひとしきり泣いた後、遠慮がちな目で僕を見た。  それから僕は、彼女に何度も餌を与え続けた。冬だし、採れる食料は限られてたけど、何とか、一日に一、二回は食料となるきのこなんかを見つけ、彼女に与えた。僕はほとんど食べなかった。彼女に何度も食べるよう言われても、誤魔化し、断った。食料が足りなかった。  雪が降った。溶けた。川のせせらぎはずっと聞いていたい程に心地良かった。それを聞きながら、毎日一緒に寝た。起きれば、また食料を探した。どんどん元気になっていく彼女。やせ細り、衰弱していく僕。彼女の、心配そうな表情と、切なげな声。もう、自分はいいからあなたが食べなさいと切実に叫ぶ彼女の声も聞き慣れた。  一ヶ月が、経った。再び、今日も食料を探しに出かけた。その時はもう、何もかも忘れ、彼女のことと、食料のことしか頭になかった。そんな時、僕は月明かりに照らされながら、人間を見た。 「あの時と一緒だね」  私は何とか声を絞り出し、言った。私も、優太も、泣いていた。私は泣きじゃくり、そして、顔をくしゃくしゃにして笑った。  私は仰向けで、胸に乗っかりながら尻尾を振る優太の頭を撫でていた。いつもなでていた柔らかくてふさふさしていた面影はほとんど無く、ごわごわと固まって泥が付いている。けれど、明らかに優太だった。それは紛れも無い事実だった。歓喜と、安堵と、期待の込められた、確かな事実だった。地面の冷たさなんて微塵も気にならないくらいの。  優太は、夢中になってほうれん草を食べている。数分前に見た獣のオーラは消え失せ、すっかり懐かしく可愛らしい優太だ。肋が出て、目は窪み、足は不確かに揺れているけれど、元気と回復の兆候を見せている。  私が顔を綻ばせていると、優太は思い出したようにピタリと食事を止め、一瞬固まったと思うと、辺りをきょろきょろと見廻し始めた。そして、覚悟の篭った声でわんっと一声鳴くと、私の服の袖を口で引っ張った。こっちへ来て、こっちへ来て、というように私に真剣な眼差しを送る。  風が一つ、ざあっと木々を揺らす。私はつい、ぶるっと身震いする。月に、雲がかかり始める。途端に暗くなる辺り。しかし、空気には、夜明けの気配が含み始めている。 この一ヶ月間、無我夢中だった。必死に我を忘れて森に入り、優太を探しては暮れ、家に帰っても眠れない夜を過ごした。食事は喉を通らず、勉強も全く手につかない。私のことを心配する父親と母親の顔も、もう見慣れていた。だから、最高に安堵し切った今、些細な事が違和感として気になってくる。繁みを抜ける時に葉が服についたり、木の枝が顔に当たった時の痛みだったり、時折見つけては恐怖するまがまがしい蜘蛛とその巣だったり。  私は優太の後についていきながら、それでも思わず溜め息を漏らさないわけにはいかなかった。それは、幸福感が絶頂に登った時に、溢れ出るそれだ。ふと優太を見ると、優太も幸福そうな顔をして前を進んでいた。それでも、どことなく急いでいるように見えるのはどうしてだろう。そんなに急いで、どこへ行くのだろう。風が、再び私達の頬と背中を撫でる。  彼女がいない。僕と可菜はその子が(可菜と混同してしまうので「その子」と呼ぶことにする)いた所まで着いたのだが、その子の姿が見えない。いつもは川のせせらぎがはっきり聞こえるこの繁みの中で心配そうな顔をして僕を待っていてくれるのに。わからない。僕は混乱と動揺を隠し切れず、その場をうろうろする。可菜は、僕のことを不思議そうな目で見ている。  思い当たる所があった。まだ、その子の匂いが残っている。一度振り返りら可菜に着いてきて、というようにもう一度目を合わせる。可菜は頷いた。僕は、しっかりとした足取りで、彼女の残り香を追って進む。どこかで、フクロウが鳴く。 私は野犬を見た。思わず、息を呑んでしまう。あまりに美しかったからだ。野犬は泥あびをしていたのか足場に溜まる地面の泥を被っていた。しかし、私と優太がそこへ着いた時、野犬はピタとそれを止め、こちらを見た。泥こそ被っているが、それは優太と同じくらいに美しく可愛らしい野犬だった。凛々しく立派に立ち、その足をしっかりと地面につけている。若く健康そうな出で立ちだ。月光が照らすその全身は美しく輝き、泥がそれを反射している。光る瞳孔からは、涙を流していた。クウン、と足元で声がする。優太の鳴く声だ。優太も、何故か泣いている。二人は駆け出した。じゃれ合い、おでこを合わせ合った。二人は幸福そうだった。優太も、見た事の無い越に浸った顔をしていた。  私は何だか気が抜けてしまい、その場にへたり込んだ。喜びを分かち合う二人を見て微笑んだ。両の手のひらを眺める。すっかりしわに泥が入っている。手相の線を濃くするように、線になぞって泥がついている。それは散々優太を探し回るために草を、木の枝を掻き分け、何度も転び、受け身をとった手だ。これまで、数え切れない程優太を撫でてきた手だ。しかし今度は、あの泥に塗れた美しい野犬の毛並みも、撫でることになるかもしれない。そんな予感がした。  私は両手を地面に着け、天を仰ぐ。月の光が薄まってきている。代わりに、空が白み出している。太陽が登ろうとしている。紫色の空。夜明けは、すぐそこに来ている。 森を抜けて家に帰る道中、例のおじさんに会った。雪掻きをしていたおじさんだ。彼は厚い紺のジャンパーを着て古いグレーのジーンズを履いている。散歩の途中、会った。 「おはようございます。先日はどうもらいなくなった愛犬の行った先を教えてくださり、どうもありがとうございました」私は深々と頭を下げる。  皺のある顔で、彼は頷く。しかし、目は優しい目だ。その目で、優太と、私の抱えている野犬に目をくれて、少し思案し、言った。 「見つかって良かったな」  私は泣きそうになるのを堪え、微笑んだ。彼も微笑んでいる。優太と、野犬も、微笑んでいる。ように見えた。  思い出の詰まった宮野家の玄関の扉を開ける。それは期待の音をして開き、安堵の音をして閉まった。私は玄関に飾ってある家族写真を眺める。優しく微笑む母と、ふざけているのか威張ったふりをしている父。爆笑している私を、優太が見上げて楽しそうに舌を出しながら微笑んでいる。家族で山にハイキングに行った時の写真だ。懐かしいなあ。  そして私は思い当たる。いずれ、この写真に野犬の子も加わるのだと。名前はどんなにしようか。父と母のことだから、また人間っぽい名前にすることだろう。私だっら、もっと可愛くてナチュラルな名前を提案することだろう。例えば、コーヒーゼリーとかね。そんなことに思いを巡らせてクスクスと笑っていると、奥の方からパタパタとスリッパの音と、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえた。  父と母は、玄関に立ち尽くす私と二匹の犬の姿を確認し、歓喜の声を漏らした。目を丸くする父。口を大きく開ける母。何故か一匹増えていることに関しては、二人共最初こそ一瞬困惑し、混乱の表情を見せたが、歓喜という感情があまりに大きかった。二人は手を取り合い、抱きしめ合った。  私は涙を流した。これまでの辛く孤独な日々が一斉にに蘇る。しかし、その時に飲んだ悲しみの涙とは、味が違う。嬉しみの涙だ。止まらなくなっていた。だばーっと、これまで堪えきれなかったものが、堰を切ったように流れ出した。父も、母も、泣いていた。そして、私の方に向き直る。優太と、野犬の子も、嬉しそうで、泣いていた。 「ありがとう」母は頬の涙を手で拭きながら、絞り出す。 「辛かったな」父は、心から労いの言葉をかける。 「ただいま」感情が抑えきれない。 「ただいま」犬たちが言う。ように聞こえた。彼らは歓喜の鳴き声を発し続けている。  私はもう一度、力強く、言う。 「ただいま!」
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加