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第5話 天女の娘(一)
高天原家で言う、通称・影とは、当主に次ぐNo.2だ。であると同時に、汚れ役でもある。
絶大な権力と莫大な財力を持つ家のトップが、白いままでいられるはずがない。
だから真っ当な人格の人間が当主になる場合、《影》は当主の手を汚さないように暗躍し、敵の芽を摘む。芽で済まずに育っているなら、滅する。
非常時には当主と同等の権限を有し、当主を守る為ならば殺人さえ自己判断で当主に知られないように遂行する責務を負うのが、《影》だ。
現当主・高天原識は《影》を持たない。
識は、帝王だ。No.2を必要としていないし、悪事に手を染めることを厭わず、そして揉み消すだけの力を持っているからだ。
経営能力に優れた手腕を見せ始め、真っ当で公明正大な継人は、当主に推される人望はあるが、識のような当主にはなれない。
表の事業に集中できるように、生きることに罪悪感を持たないように、継人を守る《影》が必要だ。
継人は知らなくても、殺人武闘団の頭領である直人ほど継人の《影》に適した人材はいないのだが、弟思いの優しい心とやんわりとした言葉で断られてしまった。
きっと、継人自身は当主の座に就くのは乗り気ではないのだ。継人は、これ以上の権力と財力を求めるような人物ではない。
だが、側室の子が当主になれば、正妻である実母・淑子の誇りは大きく傷付き、現在の地位から転落するだろう。
七年前と変わらずに、継人は心から直人を守ろうとしている。
そして、直人の手を汚すまいと、願うように強く思ってくれている。――――もう、とっくに汚れているのだから、直人は構わないのに。
師匠の口癖を実践できないまま、時は過ぎた。
断られついでに、継人からは別の課題も出てしまった。
(同じ年頃の友達と、楽しく過ごす時間を覚えて欲しい)
これは、直人には非常なる難問だった。
直人は、同年代の少年達と交流が無いことを、孤独だと思ったことがない。
修験道の山では師匠と2人で行動することが多かったし、たまに集団での鍛錬になっても無駄話をする者はいない。
玄冬一族には直人のような年少者もいたが、階級による序列があるので対等ではないし、そもそも殺人武闘団は友情を育む場所とは程遠い。
しかし、友達というものは、対等な人間関係を言う。楽しく過ごせるのは、何かしらの共通点と共感を見出せるからなのだろう。
「アイツらが小学校でキャッキャとはしゃいでる頃、俺は殺人術習ってたんだよな…何の共通点があるってんだよ」
全く無い。
高天原家自体が、世間一般の人々から見たら異界のような家なのに、直人はその高天原家の兄弟姉妹よりも非常識で凄惨な場所で育ったのだ。
だから、直人は中学校生活にも同級生たちにも興味を持てないままで、別に不登校ではないのだが学校も行ったり行かなかったりで、優しさと善意の塊のような兄・継人が知ったら本気で悲しむのではないかと思うような3年間を過ごしてしまった。
間違っても、《仕事》で丸1ヶ月家を空けたこともあるとは絶対に言えない。
高校も、どうでもいいのに。
直人が所属する東千華学園は、高天原家が所有している私立学校だ。出席日数や単位が足りなければ、小中学生でも退学になる。
定期テストを何度かすっぽかした直人は、一般生徒なら確実に退学対象だ。しかし、そこは頼んでもいない高天原特権で不問とされ、直人は特に行きたくもない高校へエスカレーター進学が決まってしまった。
…のだが、早速入学式から三日欠席した。
理由は《仕事》だ。
玄冬一族は、依頼によって仕事を受ける。雇用費は高く、故に依頼は上流階級からの口コミが多く、その内容はボディーガードや密偵が多い。
殺人武闘集団と言われていても、その名から受ける印象ほどは殺しは多くない。
しかし、暗殺依頼は確実に存在する。
直人は、そのトップだ。部下に命令すれば自分が動く必要はないのだが、意図的に殺人依頼を引き受けていた。
直人の師にして先代玄冬・高天原功は、直人を育てる7年の間、殆ど依頼を取らなかった。
――――だから、直人に殺された。
師は実戦から遠ざかり、僅かに腕がなまったのだ。実戦に出ていれば、直人が功を追い越すのにはあと五年は必要だっただろうに。
大抵の人間は気付かないような僅かななまりが、直人と功の勝敗を分けた。
「……馬鹿野郎」
直人は、血を浴びた黒衣が気持ち悪いと思いながら、離れの天井の板をずらし、音も無く自室の畳の上に舞い降りた。
「そんなの…七年がかりの自殺じゃねーか」
どうして、師が自分の命を犠牲にしてまで直人を育て、完成させたのか、直人は今でもわからないままだ。
わからなくても、時折実戦に出なければ、腕はなまり体力も落ちる。
直人は、さほど強く生きたいと思っている訳ではなかったけれども、まだ師の遺言も継人の願いも叶えていない。
今はまだ、自分は死んではならない。だから、人を殺して今日も自分は生き残る。
直人は、防弾仕様のロングコートを着たまま風呂場に向かった。高級品なので、被弾した訳でもないのに、たかが血飛沫で買い替えたくない。
特殊コーティングで、血液は石鹸や洗濯洗剤で簡単に落ちる。体ごと洗ってしまおうと思いながら、直人はからりと木製の引き戸を開けた。
「…あれ?君もお風呂なの?」
と、一糸纏わぬ美しい少女が、真珠のような肌に水滴を纏わせたまま、腰を覆うほどの長い濡れ羽色の髪を梳りながら、小鳥のように首を傾げた。
直人は言った。
「……ごゆっくりどうぞ」
すーっと戸を閉めて、直人は眉間に皺を刻んだ。
何故か、うっかり風呂場を譲ってしまった。
この屋敷の住人は、主である直人の他は、三名の使用人だけだというのに。
一体、あの女は誰だ?
直人が、第101代目玄冬が、戸を開けるまでその気配に全く気付かなかった、あの少女は。
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