第1章 天女降臨

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第7話 天女の娘(三) 「どうして――どうやって、この離れに入り込んだ?」 「淑子さんが、ここが一番安全だって言ったから。鮎子さんは、直くんがお留守で勝手なことは出来ないってすごく困ってたんだけど、僕がさっさと勝手に入っちゃったから、追い出せなくなっちゃったんだよ」  天女みたいなボクっ娘は、てへっと笑うと「だから鮎子さんを叱らないであげてね」と言った。  『すごく困って』いた様子は、想像に硬くない。  当主の正妻の紹介でやって来た、《高天原の玖》という数持ちを追い返す権限を、鮎子は持っていない。  逆らうのならば命を懸けなければならず、かといって紅を屋敷に上げてしまえば、直人の逆鱗に触れて物理的なクビになるかもしれないという袋小路。  きっと、頭から血が引く思いだったことだろう。 「安全、ね」 「違うの?」  直人は答えなかった。ただ、 「あの狸女……」  と、胸の内で毒づいた。  直人の傍が安全というならば、それは『直人が戦う』ことが前提だ。  淑子は、直人が《玄冬》を襲名したことは知らなくても、功に育てられた以上は直人が《一族》の者だということくらいは知っている。  直人が、功との死闘を制するほどの者だということも。 (お前が功さんを殺したのね)  化け物とばかりに罵ったくせに、淑子は直人を何者かと戦わせて、この少女を守る為に利用しようとしているのだ。勝手に、直人の命を懸けたのだ。 「どうしたの?直くん。ちょっと怖いお顔だよ」  鎌をかけられたのだろうか。それとも、この少女の勘が異様にいいのか。  直人は表情をコントロール出来る。  母とも思えない母が今更鬼畜だった所で、眉の1ミリさえ動きはしない。   「俺は、元々怖い奴だよ。だから、あの女がお前を俺に丸投げしたんだろ。……それで、あの女はお前の安全を確保しつつ、俺と誰と戦わせるつもりだ?」 「僕を喰らいたがる男たち全部」  あまりにも漠然とした、しかし明確な言葉だった。  この少女の、天女と見紛う美しさ。まだ少女だ。もっと美しくなるのだろう。  喰らいたがる、という狂った性愛と暴力を感じさせる言葉の選び方。無防備で朗らかに見えるこの少女は、本当は必死に逃げて来て、必死に生きようとしていたのだ。 「俺も男だから危険だとは思わなかったのか?」 「思ったよ。でも、僕は無力で賭けに出るしか無かったし、直くんに会ってみてすぐわかった。このひとは、僕を踏みにじることはしないって」  屈託のない、無邪気な、そして消えない業のような艶冶な笑みで、少女は続けた。 「僕の体を見て、欠片も欲情しなかったのは君が初めてだよ。高天原直人くん」  直人は答えた。 「は?天女の水浴び見て欲情するかよ」 「…………」  少女――高天原紅(たかまがはらくれない)は、ぽかんとした。あまりにも真っ直ぐに、素朴に、「有り得ない」という口調で言われてしまった。   「ふふっ」  紅は笑った。 「天女って言ってくれたのも、直くんが初めてだよ」  天然に気障な事を言ってしまった…と直人は後悔したが、言ってしまったものは仕方が無い。やり過ごそう。 「嬉しいな。僕のお母さんが若い頃、天女みたいって言われてたんだって。お揃い!」  母子揃って、規格外の美人らしい。 「その母親は、どこにいる?」 「どこにもいないよ。僕が殺したから。それが、お母さんの遺言のひとつだったから」  あまりにも、さらりというから、迂闊にも茫然とした。  1秒ほどの隙。これが死闘では決定的な落ち度になるというのに。 「お母さんは、命を懸けての呪いを半分だけ解いてくれた。だから、は生きて、大好きなお母さんのもう一つの遺言を、叶えなきゃいけない――――叶えたいの。必ず」  真摯な黒い瞳が、真っ直ぐに直人を見た。 「直くん、お願い。それまでを守って。私に出来ることなら何でもするし、があげられるものは全部、直くんにあげるから」  それが、彼女の命であっても。  紅は、そう言っている。生と死のギリギリの崖っぷちで、愛する母の遺言を叶えたいと。  直人は、地位と富を巡る思惑が渦巻くこの家で、同母兄・継人以外と深く関わるつもりは無かった。  だが、紅の必死な言葉と姿が、無感動に淡々と生きてきた直人の、心の琴線に触れたのだろうか。 「……依頼」 「え……?」  直人は言った。 「俺は、《依頼》を受けていなければ動けない。それが掟だ。お前はもう、対価を差し出した。だから『玄冬に依頼する』と言え。それで契約は成立する」  不思議そうに、赤味が差す唇が呟いた。 「げんとう……?」 「俺の名だ。他言するな。すれば俺はお前を殺さなければならなくなる。……口の重さに自信があるなら、言え」 「……うん」  紅は、言った。 「僕は、玄冬に依頼する。を守って。直君以外の全ての男から。対価は、の全て」 「その依頼、玄冬が受けた。僕だか私だか知らないが……」  そう言えば、『べに』と呼んで欲しいと言っていた。 「べにを、守ってやるよ。それでいいんだろ?」 「……ありがとう」  紅は、花の蕾がほころぶように笑った。 「よろしくね。僕のお兄ちゃんかもしれない直くん」
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