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困ったように笑う君が好きだった。困ったように笑いながら、それでも僕のやること、したいことをたいていは受け入れてくれる。そんな優しい君が好きだった。
淡いブルーのケーキ皿を洗う。冷たい水がジンジンと指先を凍らせる。君はいつもお湯で皿を洗いたがった。わかっている。そのほうが油落ちも水切れもいいということは、君が教えてくれたから知っている。けれど僕は水で洗いたがるから、君はやっぱり困ったように笑って、そんな僕を見つめるのだ。だって、お湯で洗うと手が荒れてしまうから。荒れた手を、君に見られたくなかったから。君の前にいる自分は、できる限り、いつでも、綺麗でありたかったから。
――ただいま
それはごくありふれた言葉であり、穏やかな日々の象徴のような言葉だ。でも、明日からはそれももう聞けなくなる。シンクの横に置き去りにしたもう一枚のケーキ皿には、まっさらなままのショートケーキが乗っている。
ちょうど去年の今日のことだ。いつもの部屋でいつもよりも少しだけ豪勢な食事を終えて、それからひとつのショートケーキをふたりで食べた。
この日のために買った淡いブルーの皿。淵に白い雫模様が点々と落ちた、僕たちには似つかわしくない品のいい皿。けれど、特別な日にはふさわしい、美しい皿。そんな皿にケーキを飾って差し出せば、君はちょっと困ったように、あるいは照れ臭そうに微笑みながら、僕に「ありがとう」と言った。
ケーキにフォークを当てようとする君に、僕は「あ、」と声を上げた。それから、君が「え」と問い返す前に、僕はありふれた、でも特別な歌を口ずさむ。この日にしか歌えない、特別な歌を。
君は笑う。困ったように笑う。笑いながら僕が歌い終わるのを聞き遂げて、小さな拍手を送ってくれる。
「はは、急に歌い出すからびっくりした」
けれど、君は拍手をしながらもそんなことを言うものだから。
「でも、誕生日には歌うものでしょ?」
僕が言えば、君は困ったように笑って、もう一度「ありがとう」と言った。僕はその言葉に満足して、「さあ」と君を促した。
「もう食べてもいいよ」
そして今度こそ、君がケーキにフォークを差し込むのを見守ることにする。と、君はそんな僕をしばらく見つめてから、いつもと少しだけ違う笑みを浮かべた。目を細め、どこか悪戯っぽく、けれど確かな幸福の色も目尻の皺に滲ませながら。
「本当は食べたいんでしょ」
この日は君にとっての特別な日だった。だからもちろん、僕はその特別なケーキを幸せそうに食べる君を見ているだけでよかった。よかったはずだった。それでいいのだと、自分自身に言い聞かせていた。でも、君の目はそんな僕の本心を確かに見透かしていたらしい。君はフォークに乗せたひとくち分のケーキを僕のほうに向けた。それはとても、とても、幸せな味がした。
それから一年が経った今年、僕はもう一枚同じ皿を買った。淡いブルーの、雫模様が美しい品のいい皿。昨年の商品だ。同じものを探すのはとても大変だった。けれど僕は、やっとの思いでそれを見つけた。そして今年は、ショートケーキもふたつ用意した。今年はひとりひとつずつ食べられるはずだった。それは去年よりもさらに幸せな味がするのだろう、と楽しみにしていた。
それなのに。
僕は食べられることのなかったまっさらなケーキを眺めながら、自身が食べ終えたケーキ皿をひとりで洗っている。冷たい水で、洗っている。
「ハッピーバースデートゥーユー」
僕は小さく口ずさむ。喉が引き攣って、声は掠れている。あまりにも不格好なメロディーだった。ザバザバと手元に打ちつける水音がそれを掻き消そうとする。
「ハッピーバースデートゥーユー」
それでも僕は歌い続ける。
「ハッピーバースーデー、ディア、」
ぐぐっと喉が締まった。視界が歪んで手元がよく見えない。
と、手が滑って、持っていた皿が空を泳いだ。はっとした。腹の底がひやりと冷たくなる。必死で手を伸ばした。落ちる皿とシンクの間にどうにか手を滑り込ませた。
これまで失ってしまったら。
僕はほっと息を吐いた。そんな僕の目から、ひとつ、雫が落ちて、淡いブルーの皿の表面を滑っていった。
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