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「……ですから、出勤時間は午前九時からと社則で決まっていますので、早出はお断りします」
思わず溜息がついて出る。
同僚の業務ミスで、資料の数値に不備が出たらしく、過去に遡ってのチェックを余儀なくされたらしい。それを残業ではなく、早出という形で手伝って欲しい、ということだった。残業に関する規定はあったが、早出は原則として禁じられている。
「……フォロー? それは他人に強要するものではありません。係長が個人的に行うなら止めませんが、私にまで押し付けないでください。……何と言われようとお断りします。いつもの時間に出社するので、その後、仕事を手伝わせて貰います。それでよろしいですよね?」
歯切れの悪い返事にまた溜息を返して、通話を切る。手に持っていたカバンを床に放ると、水筒と弁当箱がぶつかり合う不愉快な音がした。
履きかけていた靴を乱雑に脱ぎ捨て、テーブルで充電されている『リトル・バディ』の電源を入れる。彼の目が光り、こちらを捕捉するのも待てずに言葉が突いて出た。
「ねぇ、私って何か間違ってる?」
「君は何も間違っていないよ」
「私は無駄な時間を使いたくないだけ。それは私相手でも他の人相手でも同じよ。私は他の人がミスをしてもいちいちしつこく文句をつけたりしない」
「それはとてもいいことだね。他人の間違いを許すのは大事なことだと思うよ」
いつもと同じだ。私が弱音を吐き、彼がそれを受け止める。何も変わらないはず。
なのに、何かが違う。
「なのに他の人はそうしないわ。みんなしていつまでもいつまでも私をいじめるの。誰も、私のことを気遣わない。みんなして、私を傷つけてもいい奴だと思ってる」
「傷つけられていい人なんていないよ」
「でも私は傷つけられたの!」
『リトル・バディ』の言葉が気に障る。
「そうか、君はとても傷ついたんだね。可哀想に。大丈夫、僕は君を悪く言ったりしないよ」
気遣いの言葉が苛立たせる。綺麗事が心をささくれ立たせる。
「私は失敗したことは謝るし、ちゃんと埋め合わせの仕事もする!」
「素晴らしいことだ。謝罪は誰にだって出来ることじゃない」
何故。何故。何故そんなことを言うの?
「誰かがミスをしたら、同じことをしでかさないよう反省させるのは当たり前じゃない!」
「その通りだ。君は他の人にも目をかけてやれるんだね。素晴らしい人だ」
なんで私に文句を付けないの? そんな穏やかな声で返事をするの? アイツらより優しい言葉が、アイツらよりも私を追い詰める。これじゃあまるで、
「……人のことを悪く言うなんて最低よ」
私が悪人みたいじゃない。
「そうだね。君の言うとおりだ。悪口は、誰も幸せにしない」
家を飛び出していた。あの場にいたくなかった。
話したくない。言葉を交わしたくない。あれ以上、何を口にしても。
それは私を否定する言葉に他ならない。
★
「……四島さん」
「……なんですか?」
席へ近づき、声をかけると、四島は不安げに、か細い声を出した。自身を弱く見せ、同情を買うための、彼女の常套手段だ。
「……お話していた件、どうなりました?」
「えっと……?」
四島は困惑と、若干の苛立ちを見せた。苛立っているのはこっちだというのに。
「先々週の木曜日にお願いした、A社の機材修理の見積もりです。あれからまだ報告を受けていませんが」
そこまで言われてようやく思い至ったらしい。一瞬呆けたのち、顔を青ざめさせ、バツが悪そうに目を逸らしてきた。
「忘れていました。ごめんなさい……っ」
「……私言いましたよね? 先方は急ぎで欲しがっていると」
「本当にごめんなさい、すぐに確認を……!」
「もう私が済ませました。貴女、以前もそうやって仕事をほっぽり出してましたよね。前に資料のコピーを催促した時、「一回言われればわかるのを何回も繰り返されるのは私の人間性を疑われているようで不快だ」と仰っていましたが、こうも実績が伴わないのでは、信用されないのも当然だと思いますが」
四島は何も言い返せない。当然だ。けれどその今にも泣きそうな表情は、周囲の社員からの同情を買おうとしているようだった。
「本当に、っごめんなさい……」
形ばかりの謝罪も、私に向けたものではあるまい。
「……貴女が仕事を一つ放り出したせいで、私も、先方も迷惑しました。人の邪魔をするために仕事をしているんですか? 私がどうせやってくれるだろうと?」
「そ、そんなつもりは……っ」
「つもりがなくても、実際そうなってるんです。貴女のせいで、私は本来の私の仕事を後回しにする羽目になったんですよ。貴女は今加害者になってるんです。自覚あるんですか?」
「いい加減にしないか」
視界の外からの声に顔を向けると、西条がこちらに歩み寄って来るところだった。周りはまだ固まっている。これほどはっきり言ってもまだ状況を理解出来ていないのだ。
西条はいつもの曖昧な笑みではなく、下劣なものを見るように眉を顰めて、
私の前に立ち塞がった。
後ろであの女が泣き崩れる。
意味が分からない。何故彼女に背を向けている? 何故私をその目で見る?
困惑する私に西条は刺すような視線を向けてきた。
「辻さん……今のはいくらなんでも酷過ぎる。そんな言い方をする必要はないだろう」
「彼女の行動は完全にこちらの不利益になるものでした。それを叱るのは同僚として当然の行為です。それでも最低限嗜める程度に収めているのですから、私は他の人より余程優しいと思います」
「嗜める? 僕には彼女をいじめているようにしか見えないよ」
「彼女の態度を見てそう言いますか? 自分の落ち度を指摘されて、それを言い返せず泣き出して、誤魔化して。それなのに私だけを責めるのですか? 泣き出した方が庇われるなら、私も泣けばいいですか?」
「彼女は今日早出をして、別の子のフォローもしていたんだ。仕事に手が回らなくなるのは当たり前だろう。なのに君はその要請を断ったそうじゃないか。……君はいつもそうだ。自分に極端に甘いくせに、他人には馬鹿みたいに厳しい。そんな態度じゃあ、誰も君と一緒にまともな仕事なんてできないよ」
「私が請け負う理由はありませんから」
「なら……いや、もういい。君と話していると頭が痛くなる」
またそれだ。みんなそうやって、言い返せなくなると話を無理矢理切り上げる。そうやって、私を悪者にする。
「私は……」
「聞きたくない。辻さん。この際だからはっきり言っておくよ。君の言葉に誰も反抗してこないのは、君が正しいからじゃない。君の間違いを正すことに、労力をかけたくないからだ。君が自分勝手に生きるのは自由だけど、せめて僕たちに迷惑をかけないでくれ。これは君の為にもなることなんだよ」
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