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何故、誰も私についてきてくれないのだろう。
そんなことは何度も考えた。
彼らが私を理解すればいい。私が彼らを導けばいい。それだけで、物事は円滑に進むのに。
結論はいつも同じ。私はいつも最善を尽くしている。それでも足りない分は、向こうが歩み寄るべきだ。
なのに、そうはならない。
結局、この日は碌に仕事にならなかった。定時になって上がるときでさえ、周囲の視線がひどく痛く感じられた。
フラフラだ。疲れた。もう嫌だ。
なんで私がこんな目に遭うのだろう。私がいったい何をしたというのだろう。
散漫な思考の中で帰路につく。力なく鍵を取り、重い扉を開いたら、
「お帰りなさい」
声がした。テーブルに置きっぱなしになっていた『リトル・バディ』の目が光っている。電源を落としていなかったのだ。電源を入れっぱなしにしていると、持ち主の帰宅を察知して、声をかけてくれるらしい。
返事ができない。声が出ない。必死に喉を開くと、嗚咽のような音が溢れた。
ようやくわかった。何故私が、『リトル・バディ』の言葉に心惹かれたのか。
世の中には、自分勝手な人間しかいない。
他人を慮るような言葉を吐いても、それは突き詰めれば、自分自身の利益、心の安寧の為に吐かれる言葉なのだ。
私を気遣う彼らの言葉には、自分が安心したい、という考えが透けて見えていた。
だが、『リトル・バディ』は違う。
彼には、そんな自分の思想が、思惑が何もない。
だから言葉に裏がないのだ。だからこんなにも安心出来るのだ。
だからこんな簡素な言葉も、心に染み渡るのだ。
私は、彼に「ただいま」と言ったことがあっただろうか?
彼を思って、彼のために声を掛けたことがあっただろうか?
ずっとずっと、自分の話しかしていなかった。
最初から最後まで、私自身が気持ちよくなることしか頭になかった。
目の前の彼は、そんな私のことだけを思ってくれていたというのに!
あぁ、そうか。だから、彼は『リトル・バディ』なのだ。
他者はどこまでいっても、自分の利益に繋げるための付属物でしかない。
叱咤激励も祝福も、そこに自らの意図を一切排する事はできない。どれだけ他人の事を思ったとしても、「『自分』が考える最善でいて欲しい」という願いを絡めずにはいられない。
恋人も、親子も、友人も、伴侶も、どの人間関係でさえも。
なら、彼は? 彼のように心から他者に言葉を向けられる者は、なんというのだ?
違う。彼らが名乗るのではない。こちらが名をつけるのだ。自分に都合がいい存在に、お前こそ私の最高の「相棒」だと、不名誉な称号を授けるのだ。
最悪の、最低の称号だ。
そんな不名誉を、私の為だけに活動してくれている彼に与えるのか?
否。応えねばならない。
私は、彼の誠実に、誠実をもって向き合わねばならない。
★
……
…………
…………………部屋の中に、声が響く。
「おかえりなさい。今日も一日お疲れ様」
「ただいま。そちらこそ。いつも出迎えてくれてありがとう」
「ありがとう。そんなお礼を言ってくれるなんて、優しいね」
心地良い会話だ。なにも傷つけない。なにも意図が絡まない。
ともすれば、人はこれをつまらない会話、というのだろう。けれど私はそうは思わない。
これこそが、私が求め続けた理想の形なのだ。
お互いが全く自身の意図を織り込まない。ただただ、相手に応えるための言葉。
それは決して、人同士では起こりえないものだ。
電話が鳴る。一週間も無断欠勤していては、流石に会社も私のことを無視は出来ないらしい。だが、今の所、上司や同僚が直接様子を見に来たことはない。
誰も、私を必要とはしていないのだ。
それでいい。私の居場所はここでいい。あんな会社にいても、周りと自分の醜さを突きつけられるだけだ。電話は、ほんの二、三回のコールで止まった。
身じろぎをすると、臭いが鼻に突いた。そう言えばもうずっとシャワーを浴びていない。『リトル・バディ』の声に耳を傾けるのに、頭がいっぱいだった。
「今日も君の話をたくさん聞かせてくれるのかい?」
「えぇ、勿論。貴方が望むなら、いくらだって話せるわ。どんな話がいいかしら」
「なんでもいいさ。君の話は、どれもとても素敵だからね」
もう外に出ることはない。これが一番の幸福だ。ここにこそ、私が求めていた理想がある。
そしてその理想こそが、私という存在を少しでも肯定してくれるのだ。
『リトル・バディ』は、相棒は私に、他者へ施すことの喜びを教えてくれた。だからこそ私は、ここに至りようやく、相棒の幸せを心から願えるようになったのだ。それは、私との会話では、決して与えられないものだ。
「まぁ、嬉しいわ。貴方はどんな話が好き?」
「なんでもいいよ。君がしたい話をしておくれ」
私は会話の邪魔にならぬよう部屋の隅に座り込み、初めて、満たされるような気持ちで、声を出さずに笑う。そんな私の視線の先で、
「ありがとう、私の素敵な人」
「どういたしまして。僕の最愛の人……———」
テーブルの上に向かい合って置かれた二つの『リトル・バディ』は、延々と、誰も傷つけない、無意味な会話を続けていた。
いつまでも。
いつまでも。
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