ただいま

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冬の冷たい風が吹き荒れる中、一台のタクシーが山間の古びた家の前で止まった。タクシーの運転手が振り返り、後部座席に座る男に「ここで間違いないですか?」と声をかける。 「はい、ここで間違いありません。」 隆志は静かに答え、タクシーのドアを開けた。彼の足元にはすでに雪が積もり、空気は切るように冷たかった。ふと見上げた空は、どこか物悲しく、厚い雲が広がっていた。 20年ぶりにこの家に戻ることになるとは、かつての自分では考えもしなかった。大学を卒業し、都会で仕事を始め、そのまま忙しさに追われる日々。家族とは連絡を取ることも少なくなり、気がつけば年月が流れていた。両親のどちらもすでに他界し、家は長らく空き家となっていた。 玄関前に立ち、昔からの木製のドアに手をかけた。ドアノブはひんやりと冷たく、開けるのに少し力が必要だった。 「ただいま…」 静かな声が口から漏れる。誰もいない家に向けて言う「ただいま」には、どこか虚しさがあったが、それでも言わずにはいられなかった。 玄関の中に一歩踏み入れると、記憶の中の家の香りが微かに鼻をくすぐった。古びた木材の香り、そしてかつて母が好んで使っていた柔軟剤のほのかな香り。懐かしさが胸に押し寄せた。 家の中は、まるで時が止まったかのようだった。リビングの壁には家族写真が並んでいる。若かりし頃の両親と、まだ小さかった頃の自分。あの頃の思い出が鮮明に蘇ってくる。 「隆志、ちょっと手伝って!」 「お母さん、どこにいるの?」 「ここよ、キッチンでお味噌汁を作ってるの。」 幼い頃の自分の声が頭の中に響く。母の声も父の笑い声もすべてが鮮やかに思い出される。だが、今はもう誰もいない。誰も「おかえり」と言ってくれる人はいないのだ。 隆志はリビングに入り、ソファに腰を下ろした。ここに座って家族揃ってテレビを見た夜のことを思い出す。笑い合い、時には口論もしたが、それでもあの時間はかけがえのないものだった。だが、大人になり仕事に追われるうちに、家族との距離が少しずつ広がっていった。 「どうしてもっと早く帰らなかったんだろう…」 ふとそう思う。しかし、後悔しても今さらどうにもならないことは分かっていた。それでも、心の奥にあるわだかまりが消えることはなかった。 その時、風の音に混じってかすかな声が聞こえた気がした。 「おかえり…」 隆志は驚いて振り返った。そこには誰もいない。だが、確かに聞こえた。あの優しい声が。 「母さん…?」 心の中で声が響く。しかし返事はなく、ただ静寂だけが広がる。隆志は立ち上がり、家の中をもう一度見渡した。何かに導かれるように、家の奥へと足を進める。 両親の部屋に入ると、そこには母が最後まで大切にしていた古びた箪笥があった。隆志はそれを開け、そこにある一冊の古いアルバムを手に取った。ページをめくると、幼い頃の家族写真が次々と現れる。笑顔の母、父、そして自分。 その中に一枚、見覚えのない写真があった。そこには、母が手紙を持って微笑んでいる姿が写っていた。手紙には「ただいま」と書かれていた。 「母さん…」 隆志の目から自然と涙がこぼれた。母は、自分がいつか帰ってくると信じて、ずっと待っていてくれたのだ。そして、自分が「ただいま」と言える日をずっと待ち望んでいたのだ。 「ごめん、遅くなって…でも、帰ってきたよ。」 静かに、しかし力強く、隆志はもう一度「ただいま」と言った。今度は誰に向けたわけでもなく、家全体に向けて。そしてその言葉は、家の中に優しく響き渡り、まるで家自体が彼を迎え入れているかのように感じた。 暖かな涙が頬を伝い、心の中に積もっていたわだかまりが少しずつ溶けていくのを感じた。 家を出る前、もう一度隆志は玄関で振り返った。そして静かに言った。 「ただいま。」 その言葉は風に乗り、遠くへと広がっていった。今度は、もう二度と後悔することのないように、彼はしっかりと前を向き、再び歩み始めた。
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