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彗星が、落下する日
老人は、湖畔にあるベンチに一人、静かに腰を下ろしていた。秋の空は澄み渡り、鏡のように静かな湖面に、色づき始めた木々が美しく映し出されていた。
老人は深く息を吸い込み、秋の香りを胸いっぱいに感じた。風は穏やかで、心地よい気候が広がっていた。
ふと、小さな足音が近づいてくるのに気が付く。
「やっぱり、ここだった。テートクは本当にここが好きだね」
振り向くと、長い黒髪の少女が、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「雫、おじいちゃんと呼びなさい。提督だったのは、君がゼロ歳の頃……5年も前のことだ」
「テートクの方が、かっこいいよ。お友達に自慢してるんだよ」
老人は苦笑いするしかなかった。
彼女の頬は少し赤らんでいて、青い目は純粋な輝きを放っていた。雫は老人の隣にちょこんと座った。
「湖、とってもきれいだね。あっ、魚が跳ねた! 写真、写真!」
雫は立ち上がり、スマートフォンを取り出しながら湖畔へ走っていった。
――この子が真実を知ったら、果たして許してくれるだろうか?
微笑ましいはずの雫の様子を、素直に喜べなかった。
「お父さん、電話ですよ。雫は……ああ、やっぱりここだったのね」
女性の声に振り返ると、屋敷へと続く石畳に女性が立っていた。
「いいかげん、自分のスマートフォン、持ってくれないかしら」
困ったような表情を浮かべ、スマートフォンを差し出す。彼女は老人の娘であり、雫の母親である美奈子だ。
「頻繁に連絡は来ない。どこにいても、呼び出されるのは性に合わん」
彼女は軽く溜息をついてから、湖畔へ視線を向けた。
「雫! クッキーが焼けたわよ。おやつにしましょう」
「はーい!」
「お父さんも、電話が終わったらお茶にしましょう。外に長くいると、体にさわりますよ。コーヒーと紅茶、どちらがいい?」
「紅茶をもらおうかな」
雫は小さく手を振ってから、母親と共に別荘へ戻って行った。老人は、2人が離れたことを確認してからスマートフォンを耳に当てた。
電話の向こうから懐かしい男性の声が聞こえてくる。
「お久しぶりです、桐ケ谷提督。お元気でいらっしゃいますか?」
「佐竹君まで、その呼び方か。勘弁してくれ」
「あなたは、太陽系防衛作戦の立役者。私だけでなく、皆、そう呼んでますよ。それより……」
秋風がビュッと吹き、木々の葉を揺らした。胸の内がざわめく。
「ついに、解読が終わりました」
老人は湖に視線を移した。水面を揺らすさざ波が、現在と過去の狭間で揺れる自分のようだと思った。
「あなたにとって、酷な情報になるかもしれません。それでも、お聞きになられますか?」
「もちろんだ、5年も待ったんだ」
老人は、一呼吸おいてから答えた。
「要点だけお話しします。一度、東京研究所にお越しください。詳細はその時に説明します」
「ああ」
「データ量はゼタバイトを超えていました。言語体系が随分と違っていたので、解析に時間が掛かってしまいました」
「そんなことはいい、結論を延べたまえ」
桐ケ谷は彼の上司だった頃を思い出す。それはもう、厳しく叱ったものだ。
「予想通りでした。彼らは周到に準備をしていました――」
佐竹は解析結果を簡潔に、桐ケ谷に伝えた。
電話を切った桐ケ谷は、深い息をついた。心の中の重荷は、さらに重たくなっていた。
ゴホゴホ……。
集中力が切れた途端、突発的に咳が出てきた。胸が苦しくなる。震える手でポケットからタオルを取り出して、口に当てた。咳が収まると、タオルは真っ赤に染まっていた。
――待ってはくれんということか。
老人はタオルを投げ捨て、ゆっくりと屋敷へと歩を進めた。
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